| 人&場所関連ニュース
PEOPLE & PLACES
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| ブルームバーグ社、振付家のためのプレース賞授与
| 更新日
12/29/04 |
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国際金融情報及びニュースを提供する、マイケル・ブルームバーグ市長経営のブルームバーグ社が、
イギリスで新しいコンテンポラリーダンスのコンクールを発足した。このプレース賞は2年に一度開催され、
今回は準決勝に残った振付家20人に、公演の全費用及び機材、リハーサル施設を含むコミッション(委嘱費)
が贈られた。コンクール参加者はロンドンのザ・プレース・シアターで9月に作品を上演し、その後、観客と
審査員が更なる選別を行なった。受賞者たちには総額18万ドルの現金が賞として配当された。最高額の4万5千
ドルは、おそらくポップ歌手カイリー・ミノーグの振付家として最も知られている振付家ラファエル・ボナシェラ
が獲得した。(ニューヨーク・タイムズ)
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| オルネット・コールマン、ギッシュ賞を獲得
| 更新日
12/29/04 |
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サックス奏者、作曲家、ジャズ革新者であるオルネット・コールマンが、25万ドルと 銀の大メダルが贈られる2004年度ドロシー・アンド・リリアン・ギッシュ賞の受賞者に
選ばれた。授賞式は10月14日にハドソン・シアターにて行なわれ、ジャズ・アット・ リンカーンセンターの芸術監督、ウィンストン・マルサリスからコールマンに敬意をもって
贈られた。ギッシュ賞は芸術における先駆者的な才能を表彰する賞で今年11年目を迎える。
これまでの受賞者には、ダンサーで振付家のビル・T・ジョーンズ、劇作家のアーサー・ミラー、 作家のイザベル・アレンデ、音楽家で詩人のボブ・ディラン、映画監督のイングマー・バーグマン、
建築家のフランク・ゲーリーなどが選ばれている。(ニューヨーク・タイムズ)
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| アルヴィン・エイリー・カンパニー、ポール・ジラードに敬意を表する
| 更新日
12/29/04 |
| アルヴィン・エイリー・アメリカン・ダンス・シアター(AAADT)は、12月23日、
ニューヨークのシティセンターでの同カンパニーの公演の一環として、興行主で
元ダンサーのポール・ジラードを祝福するイベントを行う。ジラードは35年間
AAADTの興行を行い、特に過去30年間は海外公演の全てを手がけて来た。
ブタペストに生まれ1950年代に帰化してアメリカ国民となった。プリンシパル・ダンサーとして
ノラ・ケイ、コレット・マーチャンド、ソニア・アロヴァなどと共に国際的な公演活動を行ない、
興行主としてAAADT、NYCB、ABT、マーサ・グラハム・ダンス・カンパニー、ダンサーズ・オブ・バリ、
マドリッドのバレエ・ウラテ、ユニバーサル・バレエなどの公演を上演した。国際的にも、
アメリカ人キャストによるウェストサイド・ストーリーを初めて日本でツアーをするなど、
多くの有名な文化興行の責任者を務めた。また彼は、ミハイル・バリシニコフ、エリック・ブルーン、
ジュディス・ジャミソン、ジョン・タラス、ヴァイオレット・ヴァーディなど国際的に認められたアーティスト達の紹介もしてきた。
ジラードの自叙伝“私の羽の下で:興行主としての人生”は2001年に出版されている。
(ニューヨーク・タイムズ)
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| WNYCテレビ局のホストが“ヴォイス・オブ・ザ・メト”に
| 更新日 12/29/04 |
| メトロポリタン・オペラ(メト)による土曜日の午後のライブ公演は、
アメリカ・テレビ史上、文化プログラムとしては最長寿番組。 この“ヴォイス・オブ・ザ・メト”の放映は、1931年の12月25日に
フンバーディンクの“ヘンゼルとグレーテル”公演で開始して以来、 たった3人しかホスト役を務めていない。44年間ホストを務めた大声で知られた
ミルトン・クロスと、29年務めて5月に引退したこちらは軽やかなバリトンのピーター・アレンである (ロイド・モスが代理として2回出演した)。そして今、WNYC局のクラシック音楽番組でホストを務め、
過去4年間アレンの代理として数回登場したことのあるマーガレット・ジュントウェイトが、 12月11日に放映されるヴェルディの“シチリア島の夕べの祈り”よりその役を引き継ぐことになった。
メトによると、この土曜日のライブ放映を見る人は毎回1千万人以上に及び、米国やその他の国々で 360のテレビ局が放映していると言う。この番組は今も生き残って入るものの、その将来は決して確実ではない。
長年スポンサーだったシェヴロンテキサコは昨年撤退。2000年にシェヴロンに買収されたテキサコは1940年以来ずっと
同番組のスポンサーだった。メトは“メトのテレビ番組を救おう”という活動を起こして市民に訴え、 これまでに1,060万ドルを集めたが、メトが今後5年間に個人、企業、財団から供給を期待している金額は1億5千万ドル。
(ニューヨーク・タイムズ)
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ジェリー・オルバック、 トニー賞受賞者、“ロー&オーダー”探偵役、
享年69才
テレビのロングラン人気ドラマ“ロー&オーダー(法と秩序)”
で粗野な探偵役を演じた多才なブロードウェイ俳優、ジェリー・オルバックさんが2004年1
2月28日、ニュ−ヨ−クで亡くなった。逝去翌日には彼を追悼してブロードウェイ劇場の入り口
のひさしのライトがいつもより薄暗く灯された。ブロンクス生まれのオルバックさんが主要な
プロの仕事を射止めたのは1950年代前半、絶賛された“三文オペラ”のオフ・ブロードウェイ公
演の代役が最初だった。公演数が二千六百回を超えたこのプロダクションで、オルバックさんは
最終的にマック・ザ・ナイフ役に昇進。1960年には、同じくオフ・ブロードウェイの“ザ・ファ
ンタスティックス”でエル・ギャロ役に抜擢されて成功をおさめ、名実ともにスターの座にの
ぼりつめた。1965年の“ガイズ&ドールズ”のリバイバルで初めてトニー賞候補に選ばれ、1
969年の“プロミス、プロミス”で初のトニー賞ミュージカル最優秀男優部門に輝いた。オルバ
ックさんは“シカゴ”のビリー・フリン役のオリジナルキャストであり、1980年に大ヒットし
た“42ンド・ストリート”ではジュリアン・マーシュ役を演じた。そして1990年前半には、“ロ
ー&オーダー”の下世話な事情に通じた辛口探偵レニー・ブリスコウ役に抜擢され、新世代の
ファン層を獲得し、また一つ新しいメディアでの成功をおさめた。(バックステージ紙)
更新日 12/28/04
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レナータ・テバルディ、
「天使の声」、享年82
アルチュロ・トスカニーニをして「天使の声」と言わせたソプラノのレナータ・テバルディさんが2004年12月19日、サン・マリーノで亡くなった。82才だった。人々に最も愛されているオペラ・シンガーの一人であるティバルディさんは、プッチーニのミミやトスカ、ヴェルディのデスデモーナやアリス・フォードなどの役でずば抜けていた。彼女の濃厚で表現力豊かな声は「二十世紀のイタリアで最も贅沢で美しいリリコ・スピント(明るく叙情的な質感と、重みのあるドラマチックな質感を兼ね備えた)のソプラノ・ヴォイス」(アントニー・トマシーニ、ニューヨーク・タイムズ紙)と言われていた。
1922年にイタリアのペサロで生まれたテバルディさんは、幼少時代にはピアノを習っていた。17才のとき、ピアノの先生に薦められ、パルマの音楽院でエットーレ・カムポガリアーニに師事し声楽を学んだ。ちなみに後に最も重要な師となったのは声楽教師として名高かったカルメン・メリスであった。1944年、ロヴィゴの地方劇場で行われたボイトの“メフィストフェレ”でエレーナを演じてオペラ・デビューを飾るや否や、テバルディさんは成功への道を歩き始めた。1946年にはミラノのスカラ座でトスカニーニのオーディションを受け、戦時中に大破したオペラハウスの復興を祝うコンサートに出演を果たし、キャリアの土台を築き上げた。待ち望まれたメトロポリタン・オペラ・ハウスでのデビューは1955年、“オテロ”のデスデモーナ役だった。1963年、疲労による声帯の異常に見舞われたティバルディさんは一年間活動を停止し、休養と同時に発声技術を見直す機会を得た。1964年に復帰した当時、彼女の声の輝きは幾分か失われていたが、それでもティバルディさんは自ら「第二のキャリア」と呼んだ時期を通じて素晴らしい演技を続けた。しかし1976年、僅か54才で引退。デッカ社から発売されている“オテロ”“ラ・フォルザ・デル・デスティーノ”“アンドレア・シェニエール”“ラ・ボヘーム”“トスカ”“マダム・バタフライ”“イル・トラヴァトーレ”などの作品の完全録音の中では、主要人物を演じる彼女の歌声を聞くことができる。
(ニューヨーク・タイムズ紙) 更新日 12/19/04
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ハワード・キール、
舞台と銀幕のミュージカル・スター、享年85才
映画・ミュージカルの主役男優ハワード・キール氏が昨年11月7日、
カリフォルニア州パーム・デザートで亡くなった。85才。イリノイ州でハロルド・リークとし
て生まれたキール氏は、苦難の幼少時代を過ごしたが、「音楽が私を完全に変えた」という
。ロス・アンジェルスで歌うバスボーイ(レストランの下働き)としてスタートし、第二次
世界大戦中はダグラス飛行機工場で士気高揚のために歌った。1946年、オスカー・ハマース
タイン二世が“回転木馬”のブロードウェイ公演のビリー・ビグロウ役にキール氏を抜擢。
氏はロジャース&ハマースティーンの元で二年間を過ごし、“オクラホマ!”のロンドン初
演でカーリー役を演じた。しかしハリウッドからの誘いがあり、1950年、メトロ・ゴールドウィン
・メイヤー(MGM)と契約を結んだ。初主演だった「アニーよ銃をとれ」(1950年)ではベティ・
ハットンの相手役を務め、ハンサムなルックスと豊かなバリトンで一躍スターになった。1951年
には“ショー・ボート”、2年後には“キス・ミー・ケイト”で、キャサリン・グレイソンと共
演。彼の代表作(そして自身のお気に入り)は1954年の“七人の兄弟と七人の花嫁”であった
。やがて映画スタジオが衰えるにつれ、キール氏はドラマに出演し始め、ジョン・ウェインや
カーク・ダグラスと共演した“戦争ワゴン”などいくつかの西部劇映画に出演した。舞台にも
復帰し、数々のプロダクションと共にツアーを回り、中でもジェーン・パウエルと共演した19
77年の“南大平洋”の全国ツアーは数々の記録を打ち破った。1981年、キール氏は人気テレビ
・ドラマ“ダラス”の石油王クレイトン・ファーロウ役で再びブレイクした。しかしキール氏
の情熱は音楽にあり続け、“ダラス”降板後、80才で初めてアトランティック・シティー(カ
ジノ)出演を果たした。(ニューヨーク・タイムズ紙)
更新日 11/7/04
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レイチェル・ヨコム、
ダンス教育家、享年88才
ダンス教育家でライターのレイチェル・ドゥナヴェン・ヨコムさんが昨年11月14日、
アリゾナ州トゥーソンで亡くなった。88才。オレゴン州コルヴァリスに生まれたヨコムさんは、1951年にニュ
ーヨーク大学で博士号を取得し、その後はオレゴン、アイダホ、ユタの各州の学校や大学でダンスを教えた。
1954年から1972年の約二十年間、彼女は映画「フェイム」のモデルとして有名なニューヨーク市のパフォー
ミング・アーツ高校のダンス科で主任を務めた。ヨコムさんはジャックリン・ブグリジ、ローラ・ディーン、
エリオット・フェルド、アーサー・ミッチェル、エリオ・ポマーレ、ベン・ヴァーリン、エドワード・ヴィレラ、
ダドリー・ウィリアムズなど主要なニューヨーク・ダンサーたちの多くを育てた。他には、グラハム・ダンサーの
ガートルード・シュールとの合作「モダン・ダンスのテクニックと教え方」(1946年)など本も何冊か執筆してお
り、作曲やダンスの写真撮影などの活動も行っていた。
(ニューヨーク・タイムズ紙)
更新日 11/7/04
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アリシア・マルコヴァ、
イギリスのバレリーナ、享年94才
セルゲイ・ディアギレフのロシアバレエ団の花形であり、イギリス国立バレエの共同創始者であったアリシア・マルコヴァさんが2004年12月2日、イギリスのバース市で亡くなった。94歳。優美かつ純粋なクラシカル・ダンサーとして知られていたマルコヴァさんは、19世紀ロマンティックバレエの傑作である“ジゼル”が代表作であった。
1910年、リリアン・アリシア・マルクスとしてロンドンに生まれ、幼少期には「小さなアリシア:パヴロワのミニチュア」としてパントマイム劇に出演し、早くもその類い稀なる才能を発揮していた。1924年には当時バレエ界最高峰とされていたロシア・バレエ団に入団。ロシア人でない団員は改名を薦められ、マルコヴァさんもディアギレフ直々に芸名を授かった。1929年にディアギレフが亡くなると、マルコヴァさんはロンドンに戻り、芽を出し始めていたイギリスのバレエ運動に参加、バレエ・ランバートやヴィック・ウェルス・バレエ(後のロイヤル・バレエ団)にその名を馳せた。1934年にはダンサーとしてのキャリアを通して頻繁にパートナーを組んでいたイギリス人ダンサー、アントン・ドーリンと共にマルコヴァ・ドーリン・バレエを結成した。1938年にはモンテ・カルロ・ロシア・バレエ団に入団し、1941年にはドーリンと共にニューヨークのバレエ・シアター(後のABT)に移籍した。戦後、マルコヴァさんとドーリンはイギリスに帰国し、ロンドン・フェスティバル・バレエ(後のイギリス国立バレエ)の土台となった自身のバレエ団を築いた。マルコヴァさんは1952年まで同カンパニーで踊り、その後はゲスト出演のみに絞った。引退を迎えた1963年、女王から高貴な女性に与えられる「デイム」の称号を授かった。更にマルコヴァさんは当時無名だったメトロポリタン・オペラ・バレエを引き継ぎ、ダンス界を驚かせた。芸術監督を務めた6年の間に、マルコヴァさんはカンパニーのダンサーたちの技術レベルを上げ、オリジナルのプログラムを披露するまでに成長させた。1970年から1974年には、シンシナティ・バレエ団の養成校であるシンシナティ音楽大学院で講師を務め脚光を浴びた。その後は、ロイヤル・バレエ・スクールなど数々の団体でのマスター・クラスや、過去に主役を務めたバレエの再演などに力を注いだ。
(ニューヨーク・タイムズ紙)
更新日 12/28/04
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