| 助成情報
FUNDING WATCH
|
| LMDC、トライベッカ映画祭に300万ドルを助成
| 更新日 4/23/04
|
| ロウアー・マンハッタン・ディベロップメント・コーポレーション(LMDC)は、2年に亘ってトライベッカ映画祭に300万ドルを供給することを決定した。LMDCは同映画祭が2001年9月11日の同時多発テロ後にロウアー・マンハッタンで開催された最初の大きなイベントであり、大打撃を受けたダウンタウン地区に何千人もの観光客と何百万ドルの資金をもたらした、としている。この助成金はトライベッカ映画祭ガイドや年中利用可能なトライベッカ・オール・アクセス・プログラム、同映画祭のパネルディスカッションやワークショップ、トライベッカ家族祭、丸一日開催されるストリートフェアといった様々なイベントのために使われる。LMDCとは、ダウンタウン地区を文化の中心として発展させ、同地域の継続的な経済的の安定に貢献すると思われるプログラムに、金銭面での支援をする機関。LMDC助成金に加え、パタキ・ニューヨーク州知事は同映画祭がエンパイア・ステート・ディベロップメントから20万ドルの補助金を支給されることを発表した。2004年度のトライベッカ映画祭は5月1日から9日まで開催される予定。(バックステージ)(Translated
by Atsuko Ono)
|
|
|
| メロン財団、グラハム・センターに125万ドルを助成
| 更新日
4/23/04
|
| アンドリュー・W・メロン財団は125万ドルの助成金をマーサ・グラハム・センター・オブ・コンテンポラリーダンス(MGCCD)に授与した。MGCCDの常務理事、マーヴィン・プレストン4世は「この助成金は、実に大きな意味がある」と述べた。「これはカンパニーの理事、ダンサー、教職員やスタッフ、また我々の素晴らしいボランティア弁護士チームにとっても、マーサ・グラハムの伝説的な芸術を保存・共有するための、長く、辛い戦いは間違っていなかったことを証明するものだ」と語った。2001年からつい最近まで、同センターは前芸術監督のロン・プロタスがマーサ・グラハムの名前とその全てのダンスの所有権と使用権を要求して引き起こした訴訟問題の渦中にあった。判決は完全にセンターの希望通りの結果となったが、著作権問題の最終控訴は現在も審議中。メロン助成金は、マーサ・グラハム・ダンス・カンパニー、マーサ・グラハム・スクール・オブ・コンテンポラリーダンス、最近設立されたマーサ・グラハム・リソースの運営に充てられる。ただし、この125万ドルの助成金は、同センターが2年以内に75万ドルの収益を上げ、それに同額の寄付を同基金がするというチャレンジ基金。マーサ・グラハム・ダンス・カンパニーは、2004年のニューヨークシーズンを全ての公演をオーケストラの生演奏で、4月14日から25日までシティーセンターで開催。詳細は(212)581-1212、またはwww.citycenter.org.まで。(Translated
by Atsuko Ono)
|
|
|
| エイコ+コマ、2004年度スクリップス/ADF賞を受賞
| 更新日
4/22/04
|
| モダンダンスの振付を生涯に渡って追求した功労者を称える、3万5千ドルのサミュエル・H・スクリップス/アメリカン・ダンス・フェスティバル賞が、今年は実験舞踏ダンサーのエイコ+コマに贈られる。このカップルは1976年に米国に移住する前は、日本の舞踏の創始者の一人、大野一雄に東京で学んだ。彼等の米国デビュー“白いダンス”は同年にニューヨークのジャパン・ソサエティで発表された。以来、2人は独自の作品を上演し続け、生、死、自然を追求しながら世界中で活動している。授賞式は、2004年アメリカン・ダンス・フェスティバル開催中(6月10日〜7月24日)の6月27日にデューク大学にて行われる。(Translated
byAkiko Nishijima)
|
|
|
| ABT、チャレンジ基金と新しいスポンサーとの提携
| 更新日
4/22/04
|
|
ニュージャージー州の不動産業者であり、アメリカン・バレエ・シアターの熱烈な支援者のジョゼフ・A・ウィルソンが、財政困難を抱えるABTのために新しいチャレンジ助成プログラムをスタートさせた。この基金は2004年と2005年の間に最高40万ドルまでの新しい寄付や、既に存在する寄付のアップグレードがABTに寄せられると、自社がその総額と同額の寄付をするというもので、2年間で合計80万ドルを目標金額としている。もしこの目標が達成されればウィルソンは、2006年に更に20万ドルのチャレンジ寄付をして、総額120万ドルの寄付をカンパニーのために実現させると誓約している。
ABTはまた、3つの大企業からスポンサーの申し出があったことを発表。全米最大の住宅ローン会社のカントリーワイド・ファイナンシャル・コーポレーションと、靴、ハンドバッグ、アクセサリー、上着などの一流ブランド、コール・ハーンは、ABTの国内ツアーとニューヨーク公演の公のスポンサーとして加わる。デパートのサックス・フィフス・アベニューもABTの衣裳基金に代表法人企業スポンサーに指名されている。また、ABTはエクイノクス・フィットネス・センターと新しいパートナーシップを開始。ABTの福利厚生プログラムの一環として、ABTのダンサーはニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスにある22のエクイノクス・フィットネス・センターを使うことが出来る。ダンサー達はそれぞれの好みに合わせてフィットネス・プログラムを組むことができ、エクイノクスの個人トレーナーが配属される。(Translated
byAkiko Nishijima)
|
|
|
| 米国内/州/地域の芸術助成
| 更新日
3/28/04
|
2月、ブッシュ大統領と米国芸術助成庁(NEA)は予算1,800万ドルの新しい開発プログラムを提案した。これは昨年実施されたシェイクスピア開発プログラムがモデルになったもの。「アメリカの名作:3世紀にわたる天才芸術家」と名付けられたこの3年間プログラムは、アメリカ人に自国の文化芸術遺産を紹介する教育プログラムと芸術作品の発表を連結させ、全米50州で大小それぞれの団体が重要なアメリカ人作品をあらゆる芸術様式に渡って発表する企画を後援するという。この1,800万ドル増を含む(1,500万ドルが開発プログラム、残りの300万ドルはその他の助成金申請および事務運営費用)NEA予算案は、4月1日にダナ・ジオイアNEA長官によって米国国会に提出される予定。しかし立ちはだかる連邦政府の予算赤字はこの提案の行方を不確かにさせており、既に複数の議員はこの予算増加に反対を明言している。開発プランはツアー、地方公演、芸術教育の3つの部門で構成され、一年目はダンス、美術、音楽(例としてマーサ・グラハムやポール・テイラーのカンパニーなどが参加する見込み)に焦点を置く。「アメリカの名作」プログラムの資金は、NEAの出資金1,500万ドルからのみ供給され、これは実際に必要とされる資金の一部に過ぎないが、さまざまな公共団体や民間団体から残りの必要相当額の獲得は可能であり、実際、昨年のシェイクスピア開発プログラムは同じ方法で実施されて成功を収めたとNEAは語っている。(バックステージ、NYタイムズ)
米国芸術機関州会議の年末レポートによると、アメリカ各州における芸術機関の歳出額は、3年間連続でどんどん低下していることがわかった。2004財政年度には全体で8,210万ドルの損失が発生。低下の3分の2は、3つの州で行なわれた予算削減だけに起因するものであった。そのうち、カリフォルニア州は300億ドルの赤字を抱え、芸術資金は91%削減された。フロリダ州は78%、ミシガン州は48%、それぞれ削減された。これに較べるとその他の州では削減額は少ないが、地域によっては惨憺たる状況を呈しているところもある。ミズーリ州は芸術助成を100%削減し昨年の360万ドルからゼロとなった。コロラド州は79%の削減。ニューヨーク州は13.2%、ニュージャージー州では文化予算全体を切り捨てるという大なたを振るわんばかりの恐ろしい予想があったにも関わらず、23.7%の削減に留まった。コネチカット州では僅か8%の削減。事実、12の州では芸術予算が増加しており、ミシシッピー州では126.3%という驚異的な増額がされたが、その他の州の伸び率はインディアナ州の7%、アラスカ州の0.8%など1桁台に留まっている。(バックステージ)
ここニューヨークでは、2005財政年度の予備予算案はパタキ州知事もブルームバーグ市長も既に発表済み。しかし、パタキ州知事が州の芸術助成レベル(4,200万ドルを少し上まわる程度)の維持を提案しているのに比べ、ブルームバーグ市長はまたもやニューヨーク市文化部門(DCA)に対する削減を主張。市の財政は14億ドルの黒字を上げ、最近ではマイホーム保持者に400ドルの税金払い戻しを実施するにも関わらず、市長は市の機関に3億2,700万ドルの削減を提唱しており、この中にDCAの21%(2,500万ドル)の削減も含まれる。これによると、非営利芸術団体を援助するDCAのプログラム資金が700万ドル減少されることになる。市長の予備予算案は、文化プログラムのみを削減するものではないが、ニューヨーク市芸術連合(NYCAC)がランダムに選出して統計した結果によると、芸術団体のプログラム予算削減は15〜16%が基準ラインとなる。「(市長)と他の公共機関担当役員は常々、芸術が(市の)多様な経済を生み出すと述べ、とりわけロウワー・マンハッタンの再建計画は賞賛してきた。しかし提出される予算は結果的に助成を減少させるもので、成長できる余地もなくインフレに追いついていくことすらできない。」とNYCACのノーマ・マン理事長は語る。(バックステージ)
|
|
|
| 人&場所
PEOPLE & PLACES
|
| リンカーンセンター、ウエスト65丁目の大規模改造計画を発表
| 更新日
4/22/04
|
| ニューヨーク市のリンカーンセンターは4月13日、所有敷地内のウエスト65丁目の両側の大幅な改造計画を発表した。これは3億2,500万ドルを要する巨大プロジェクトで、この発表を皮切りに資金調達キャンペーン「ブラボー・リンカーンセンター」を開始し、2006年に着工予定、2009年に完成させる見通し。記者会見にはマイケル・ブルームバーグ・ニューヨーク市長も出席して、「リンカーンセンターはアメリカの創造性と優れた建築のシンボル。65丁目を『芸術の道』に変身させる、」と挨拶。その後、改造のデザインを担当する、ディラー・スコフィオ&レンフロー設計事務所のデザイナー、エリザベス・ディラーとリカルド・スコフィディオが模型図とアニメーションを見せながら、改造後のリンカーンセンターのビジョンを披露した。
今回の計画では、リンカーンセンター65丁目の両側を現在の比較的暗いイメージから、ビルの側面をガラス張りした、透明度の高い開放的なイメージにし、より公共性を高めようというもの。現在のアリス・タリー・ホールとジュリアード・スクールのビルは建物の外壁が大幅に作り替えられて拡張され、スクール・オブ・アメリカン・バレエが入居するローズビルとジュリアードの入口がこれまでの地上二階レベルから地上に降ろされる。今までガレージの中にあったリンカーンセンター劇場の入口もガラス張りにして一新し、メトロポリタン・オペラハウスの北側の池の横に丘が造成され、芝生を植えて、一般市民に解放する。この丘の下は、これもガラス張りのレストランになるという。(下図)
|
 |
 |
改造後のアリスタリー・ホールとジュリア−ドスクール
(ホール上部) |
ノ−スプラザ改造後の様子 |
|
| リンカーンセンターは1956年に組織化、1959年に正式に設立された、世界最大の芸術複合施設。現在、リンカーンセンター・フォア・ザ・パフォーミングアーツ、ニューヨーク市立図書館パフォーミングアーツ部門、メトロポリタン・オペラ、ニューヨーク・シティ・バレエ、ニューヨーク・シティ・オペラ、ニューヨーク・フィルハーモニー、フィルム・ソサエティなど合計12の団体がその敷地内に集合しており、年間4600本の公演が行われ、ここを訪れる人々は年間約500万人にのぼる。(Written
by Eri Misaki)
|
|
|
| グレゴリー・ハインズ・コレクション設立
| 更新日
4/22/04
|
|
タップダンサーのグレゴリー・ハインズを称えて、アメリカン・タップダンス・ファンデーションがニューヨーク市立パフォーミング・アーツ図書館ダンス部門と共同で、グレゴリー・ハインズ・コレクション・オブ・アメリカン・タップダンスを設立した。記録保管庫には映像フィルム、ビデオ、出版物、写真などがタップダンスの遺産を保存、習得し、一般市民と共有する目的で収められる予定。(Translated
byAkiko Nishijima)
|
|
|
| ABTの新エグゼクティブ・ディレクター
| 更新日
4/22/04
|
|
元ABTダンサーであったレイチェル・S・ムーアがABTのエグゼクティブ・ディレクターに指名された。1984〜1988年の間ABTで踊ったムーアは、カンパニーの総合運営事務を指揮し、ケビン・マッケンジー芸術監督と長期的な計画を共に検討していくことになる。カリフォルニア州デイビス出身でブラウン大学を卒業した彼女は、近年にはボストンバレエのダンス教育センターでディレクターを務めていた。(Translated
byAkiko Nishijima)
|
|
|
| ニュースになった人々
| 更新日 4/14/04
|
| ダンス・ジャーナリストで振付家のウェンディ・ペロンが、(米国)ダンス・マガジンとヤング・ダンサー誌の編集長の座にK.C.パトリックの後を引き継いで就任する。ペロンは創刊76年の歴史を持つダンス・マガジンの編集を過去4年間務めている。
また、ポール・テイラー・ダンス・カンパニーの常務取締役として12年間君臨したロス・クラムバーグが辞職する。彼の在職中、カンパニーの予算は200万から470万ドルに増加し、ジュニア・カンパニーのテイラー2が創立された他、「レパートリー保存企画」と「新作のための基金」が設立され、それぞれ目標を達成している。クラムバーグはまた、1998年に制作されたドキュメンタリーフィルム、“ダンスメーカー”の重要なスタッフでもあった。彼は1982年にツアー・マネージャーとしてテイラー・カンパニーで働き始め、3年後にカンパニー・マネージャー、1990年に取締役へ就任し、1991年には常務取締役となった。(ニューヨーク・タイムズ)
P.S.122のエグゼクティブ・ディレクターを20年間務めたマーク・ラッセルが、2004年6月で辞任することを12月に表明した。パフォーマンス・アーティストのティム・ミラーとP.S.122を共同設立したラッセルは、辞任が彼のマネージメントのやり方に不満を持つ理事会の派閥によるものという報道の内容にはコメントしていない。P.S.122は彼の在職中、ジョン・レグイザーノ、ブルーマン・グループ、エリック・ボゴシアン、レノ、ロナルド・K・ブラウン、ダニー・ホッチ、ペニー・アーケイド、カレン・フィンレイ、ダグ・ヴァローン、ロン・アシー、アン・カールソン、ウィル・パワー、リチャード・マックスウェル、エディ・アイザード、スポールディング・グレー、マルガ・ゴメスなどの重要なパフォーマンス・アーティストを発掘、育成、後援し、形に捕われないパフォーマンスのための最先端のスペースから、米国きっての実験劇場団体に成長した。(バックステージ)
|
|
|
|
|
ソフィア・ゴロヴキナ、88歳、ボリショイ学校ディレクター
2月17日、元ボリショイ・バレリーナのソフィア・ゴロヴキナさんがモスクワにて88歳で逝去した。ボリショイバレエ付属のボリショイ・スクールで偉大なディレクターとして40年間も活躍した彼女もまた、1933年のボリショイ・スクール卒業生であった。1933〜1959年に彼女はボリショイで踊り、1930〜40年代にソ連で人気があった社会主義現実主義バレエのヒロイン役で特に優れていた。1960年、ボリショイ・スクールのディレクターに任命され、そこで女性ダンサーの上級クラスを教えた。1970年代には学校の新しい建物の建設を監督。彼女は典型的なソ連時代のバレエ主唱者で、彼女の生徒は多くの国際コンクールで優勝している。1973年と1989年に生徒と米国ツアーを行い、90年代には夏に数回、コロラド州ヴェイルのボリショイ・アカデミーを監督した。ゴロヴキナさんの後任は、2001年にボリス・アキモフが引き継いでいる。(NYタイムズ)
(4/14/04更新
Translated byAkiko Nishijima)
|
ルドミラ・チェリーナ、79歳、舞台及び映画のバレエスター
フランスのバレエスター、ルドミラ・チェリーナさんが3月21日、パリで79歳にて逝去した。美貌と激しい気性で有名だった彼女は、40年代、50年代を通してヨーロッパ中の舞台を踏んだ。本名はモニカ・チェメルジンで、グルジア人の父とフランス人の母の元にパリで生まれ、幼少の頃ダンスを始めた。1940〜1944年には後にヌーボー・バレエ・ド・モンテカルロとなるテアトル・ド・モンテカルロで踊っていた。1942年に彼女はセルジュ・リファーの新作バレエ“ロミオとジュリエット”でジュリエット役を踊る。1951年、チェリーナさんは夫でありダンスのパートナーであったエドモンド・オードランが交通事故で亡くなった後、踊ることを止めるが、2年後、新しい夫のレイモンド・ロイに説得されて舞台に復帰する。彼女はモーリス・ベジャールとローランド・プティの新作バレエにインスピレーションを与え、ニューヨーク、ミラノ、ブエノスアイレス、モンテカルロ、パリで踊った。1960年にはモスクワのボリショイ劇場の舞台を踏んだ。チェリーナさんは1940年代から70年代にかけて22本の映画に出演し、その中で最も有名なものに“赤い靴”と“ホフマン物語”がある。(ニューヨーク・タイムズ)
(4/14/04更新
Translated byAkiko Nishijima)
|
|
ゲニア・メリコバ、74歳、バレリーナ・教師
50年・60年代にヨーロッパで活躍した著名なバレエダンサーであり、その後アメリカで長い間著明な教師として知られたゲニア・メリコバさんが3月5日、ニューヨークで死去した。74歳。フランス生まれのメリコバさんはルボブ・エゴロヴァ、アナトール・ヴィルザック、イゴール・シュウェゾフ他に師事。アメリカン・バレエ・シアターと短期間共演した後、パリを拠点とするグランドバレエ・デュ・マーケス・デ・クエバスに入団し、1954年から1962年にかけて主役を数多く務めた。“白鳥の湖”のオデット/オディール役で彼女は、ルドルフ・ヌレエフが1961年に亡命後、初めて共演した最初の西側のバレリーナ。1960年代半ばにメリコバはニューヨーク市に移転し、ラジオシティーミュージックホールやブロードウェイで踊る。彼女はまた優秀な教師としても知られるようになった。26年間ジュリアード・スクールのダンス部門で指導に当たり、晩年にはバージニア州リンチバーグにあるランドルフ・メーコン・ウーマン・カレッジ、そしてニューヨークのイゴール・ユースクヴィッチ・バレエスクールとアルビン・エイリー・スクールで教えた。1970年半ばにメリコバさんはコネチカット州のブリッジポート・バレエカンパニーとバーンハード・バレエの両団で演出にも当たった。(NYタイムズ)
(4/14/04更新
Translated byAtsuko Ono)
|
メルセデス・マッケンブリッジ、87歳、映画・ラジオ女優
1949年に映画デビュー作“オール・ザ・キングズ・メン”でオスカー賞を獲得した女優メルセデス・マッケンブリッジさんが、3月2日サンディエゴで死去した。イリノイ州ジョリエットに生まれたマッケンブリッジさんは、当時メロドラマや深夜番組を制作して複数のネットワークで放送していたシカゴラジオで初めて演技の世界に入る。ハリウッドに移った後、彼女の変化に富む声が“アイ・ラブ・ア・ミステリー”や“レッド・ライダー”といった番組の仕事を得るきっかけとなる。マッケンブリッジさんは後にオーソン・ウェルズのラジオドラマで安定した仕事を得た。ウェルズは彼女を「現存する、世界で最も素晴しいラジオ女優」と呼んだ。ラジオで鍛えられた力強い声を使い、マッケンブリッジさんは一筋縄ではいかない強い女性を描くことに長け、仕事でも私生活でも意志が強く、物事をはっきり言うという評判があった。彼女は戦後映画で流行ったグラマーな女性のイメージではなく、“オール・ザ・キングズ・メン”でオスカーを受賞したにも拘らず、映画の誘いはたまに入る程度だった。1954年の西部劇“ジョニー・ギター”で彼女はジョーン・クローフォードの敵役を演じた。マッケンブリッジさんはその声の技巧が買われて、1973年に映画“エクソシスト”で悪魔に憑かれた女の子の耳障りな荒れた声を演じる役に抜擢される。その他の映画出演は、二回目のオスカー賞候補となった“巨人(1956)”“腕へのサヨナラ(1957)”オーソン・ウェルズが主役で登場する“悪魔の接触(1958)”“最後の夏は突然に(1959)”“シマロン(1960)”“99人の女達(1969)”“盗人(1977)”、そして“コンコルド−空港79年(1979)”などが挙げられる。1990年代初期にはニール・サイモンがマッケンブリッジさんにブロードウェイと地方公演の両方で“ロスト・イン・ヨンカーズ”の祖母役を依頼。この役は彼女にとって見事な功績となり、この作品を560回も演じた。(NYタイムズ)
(4/14/04更新
Translated byAtsuko Ono)
|
| カール・アンダーソン、58歳、ミュージカル俳優
俳優で歌手のカール・アンダーソンさんが、2月23日にニューヨークで58歳にて白血病のため逝去。彼はアンドリュー・ロイド・ウェバーとティム・ライスの“ジーザス・クライスト・スーパースター”のユダ役を演じて最もよく知られた。この役は1971年にベン・ヴァリーンによってブロードウェイで初演されたが、彼が病気になった時にアンダーソンさんが引き継いだ。その後2人は交替でこの役を演じた。アンダーソンさんは、彼のロックバンドと共にパーム・サンデーの教会のミサで同ショーの曲を数曲演奏した時にタレントエージェントの目に止まり、オーディションを受けて合格した。1973年、彼は“ジーザス・クライスト・スーパースター”の映画版にユダとして出演し、最も有望な新人賞と最優秀ミュージカル俳優賞でゴールデン・グローブ賞にノミネートされる。彼は1992年に“ジーザス…”のリバイバル公演でツアーに参加し、この時もユダを演じている。その他、スティーブン・スピルバーグの“カラー・パープル(1985年)”やブロードウェイの“プレイ・オン!(1997年)”にも出演している。(NYタイムズ)
|
パトリシア・ファルケンハイン、77歳、オフ・ブロードウェイ女優
1月5日、メイン州ニューキャッスルで女優のパトリシア・ファルケンハインさんが心臓発作のため77歳で逝去した。ファルケンハインさんはオールド・フェニックス劇場、ザ・パブリック・シアター、ジョセフ・パップのシェークスピア・イン・ザ・パークの劇団の大黒柱的存在であり、夫で俳優のロバート・ガーリンガーとよく一緒に出演した。アトランタ生まれの彼女はニューヨーク大学を卒業し、“トレアドール(騎馬闘牛士)のワルツ”でメルヴィン・ダグラスと共演してブロードウェイの初舞台を踏んだ。その他のブロードウェイ出演には“ワンス・ア・カトリック”、“モリッセイ・ホールの完全な栄華”、1986年にトニー賞を受賞したジョン・ガレのリンカーンセンター製作作品“青い葉の家”などがある。ファルケンハインさんは“ヘンリー4世:第二部”のドール・テアシート役、イプセン作“ガイント貴族”の緑の女の役、クリストファー・デュラングの“ベティとブーの結婚”で三度のオビー賞を受賞し、ジョージ・バーナード・ショー作“ハートブレーク・ハウス”で演劇評論家賞を受賞している。(NYタイムズ、バックステージ)
|
ユタ・ハーゲン、84歳、伝説的舞台女優及び演技教師
1月14日、女優で教師のユタ・ハーゲンさんがマンハッタンにて84歳で逝去した。幅広い役柄をカバーできる非凡な女優として、70年以上、彼女はシェークスピア、チェーホフ、ショー、エドワード・オルビー、テネシー・ウィリアムズの舞台作品の主役を演じてきた。夫のハーバート・バーゴーフと共にマンハッタンで演劇学校、HBスタジオを経営し、名誉教師を務めた。演劇についての本も何冊か執筆しており、“演技への敬意”と“俳優の挑戦”の2冊は現代演技テクニックに強い影響力を与えた教則本と考えられている。ドイツのグッティンゲンに生まれ、7歳で家族とウィスコンシン州マディソンに移った。ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・ドラマティック・アートとウィスコンシン大学でしばらく学んだ後、女優を目指して大学と家を出た。わずか18歳でエヴァ・ル・ガリエンネにオフィーリア役に抜擢され、翌年にはルントとフォンテーンがプロデュースするチェーホフの“かもめ”にニーナ役でブロードウェイ・デビューを果たした。ニューヨーク・タイムズは彼女を「優美と情熱の化身」と賛美した。彼女は俳優のホセ・フェリアと10年間結婚生活を送り、その間にポール・マニと共演した“キー・ラーゴ”、ポール・ローブソンとフェリアの相手役を務めた“オセロ”など、7つのブロードウェイ・ショーに出演。1947年、ハロルド・クラーマンの“ザ・ホール・ワールド・オーバー”で俳優のハーバート・バーゴーフと出会い、フェリアと別れて彼と結婚する。2人は一緒にグリニッチ・ヴィレッジのHBスタジオで俳優養成にいそしみ、同スタジオを全米でも有数のプロ演劇訓練学校に作り上げた。1948年、ハーゲンさんは“欲望という名の電車”のブロードウェイ公演でブランシュ役を演じ、1950年にはクリフォード・オデッツの“カントリー・ガール”の主役で初のトニー賞を受賞した。1950年代には政治と人権問題について歯に絹着せぬ発言をしたためブラックリストに載せられ、映画、テレビ、国内ツアーの仕事をすることができなかったが、ニューヨーク劇場の仕事に専念し、彼女が言うところの「純粋なままでいられた」時期を過ごした。1962年、彼女は新しい劇作家による新作に自身の個性的な役を見出す。それはエドワード・オルビーの“ヴァージニア・ウルフなんか恐くない”のマーサ役であった。大酒飲みの毒舌女、マーサ役として彼女は舞台を盛り上げた。“ヴァージニア・ウルフ”はハーゲンさんとジョージ役のアーサー・ヒルの受賞を含む5つのトニー賞を獲得し、ハーゲンさんとオルビーの2人に転期をもたらした。2001年、ロサンジェルスでリチャード・アルフィエリの“6週間の6つのダンスレッスン”に主演したのがハーゲンさんの最後の舞台となった。発作を起こして後、ブロードウェイにカムバックすることはできなかったが、教えることは死の数ヶ月前まで続けた。ハーゲンさんは、1999年に生涯を通じて貢献した演劇人に贈られる特別トニー賞を受賞し、2002年に米国芸術勲章を受章した。(NYタイムズ、バックステージ)
|
ロバート・ハース、47歳、カーネギーホールのリーダー
カーネギーホールの芸術監督及び常務取締役だったロバート・ハースさんが、1月30日にマンハッタンで心臓発作のため47歳で逝去した。ハースさんは世界貿易センターテロ襲撃事件からわずか5日後の2001年9月16日に就任し、経済的に困難な2年間を通じてカーネギーホールを導いた。ピッツバーグでプロのヴァイオリニストの両親のもとに生まれた彼は、ノースウェスタン大学卒業後、シカゴの近くにあるザ・ラヴィニア・フェスティバルのマネージャー補佐となった。1979年、彼はロサンジェルス交響楽団の常務取締役に就任し、わずか23歳でハリウッドボウル交響楽団のスタッフ600人を監督した。1989年にアスペン・フェスティバル・アンド・スクールに移り、そこで理事長及び財務長官として12年間務め、ハリス・コンサート・ホールとベネディクト・ミュージック・テントを建設、寄付金を200万ドルから4,000万ドルに増加させた。カーネギーホール終身在職期間中には、周りの状況に迫られて危険な判断を下すことを余儀なくされたこともあった。ニューヨーク市全体にわたるチケット売り上げの低下と寄付金の減少に対処するため、彼はカーネギーホールの新しい会館、ザンケル・ホールの開館を2002年秋から2003年秋に延期し、ホール専属ジャズバンドを解雇した。彼はまた、カーネギーホールが提案して大きな議論を巻き起こした、ニューヨーク交響楽団との合併交渉にも取り組み、最後には中止の判断を下した。(NYタイムズ)
|
ポール・ウィンフィールド、62歳、映画及びテレビ俳優
3月7日、俳優のポール・ウィンフィールドさんがロサンゼルスで心臓発作のため62歳にて逝去した。ロサンゼルス生まれで、学士号に6単位足らずでカリフォルニア大学ロサンゼルス校を退学するまでに、4つの大学で演劇を学んだ。その後コロンビア・ピクチャーズの専属俳優となり、そこでバーゲス・メレディスの目に留まり、2つのアミニ・バラカの舞台演劇で役を与えられた。その後シドニー・ポワティエに雇われ、1969年に初めての映画“ロスト・マン”に出演した。1968年には連続ホームコメディ“ジュリア”でディアハン・キャロルの恋人役として登場し、黒人俳優がテレビに出演する機会を広げる役割を果たした。1972年、マーティン・リットの“サウンダー”で父親役を演じてオスカー賞にノミネートされる。しかしワシントン・ポストが「黒人俳優と黒人ものに対する業界の気まぐれな興味」と称した風潮のため、“ハックルベリー・フィン(1974年)”のジム役のように、ウィンフィールドさんはしばしば脇役に格下げされた。テレビでは、1978年のミニ・シリーズ“キング”での主演と1979年の“ルーツ:次世代”での助演でエミー賞にノミネートされている。1995年には“ピケ・フェンス”に連邦判事役としてゲスト出演して遂にエミー賞を獲得。彼が出演した映画で評判になった役柄には、ジェイムズ・ボールドウィンの小説を原作にした“山に行ってそれを伝えろ”(1984年)のヒーロー役、1990年の作品“推定無罪”の皮肉屋の敏腕裁判官役などがある。(NYタイムズ)
|
アン・ミラー、80歳、映画・ミュージカルスター
1月22日、タップダンサーで女優のアン・ミラーさんがロサンジェルスにて肺癌のため死去した。享年は約80歳だったと思われる。ジョニー・ルシール・アン・コーリエールとしてテキサス州シレノに生まれ、くる病を患った両脚を鍛えるため子供の頃にダンスを学んだ。両親の離婚後に母親と移ったカリフォルニアで、数年後、踊っているところをベニー・ルービンとルシール・ボールに引き抜かれる。二人がアレンジした映画オーディションで、ミラーさんはRKO映画制作会社の“1937年のニューフェイス達”で台詞のない役柄を獲得し、映画デビューを飾った。同年に“ステージ・ドア”で台詞のある役を演じ、1938年にはフランク・キャプラの“ユー・キャント・テイク・イット・ウィズ・ユー”でバレエを踊る娘役を演じた。1939年、“ジョージ・ホワイトのスキャンダル”でブロードウェイ・デビュー。1940年代を通して忘れられない名作に次々と出演したが、1948年に“イースター・パレード”でフレッド・アステアとジュディ・ガーランドと並んで主要な役を手に入れる。この役はシッド・チャリシーが足を骨折したため彼女のところへ回ってきたものだが、この役でスターとなり、映画スタジオと契約をし、その素晴らしいタップダンスを絶賛する批評も獲得した。ミラーさんが演じた役柄で有名なものは“オン・ザ・タウン(1949年)”でのジュールズ・ムンシンの相手役、“キス・ミー、ケイト(1953年)”のロイス・レーン/ビアンカ役などがあり、どちらもミュージカル映画の代表作となった。艶やかでグラマーだったミラーさんはハリウッドで女性タップのトップスターとなり、ジンジャー・ロジャースやエレノア・パウエルの後を継いだ。ミラーさんは(アステアと並んで踊るために平たい靴を履かなければならなかった)精力的で激しい動きをこなすダンサーで、彼女のエージェントによると1分間にタップを500回刻むことができたという。その他のMGM映画には“テキサス・カーニヴァル”“ラブリー・トゥ・ルック・アット”“スモールタウン・ガール”“心の奥深くに”“異性”などがある。ミュージカル映画の人気が衰えた1950年代半ばになると“エド・サリバン・ショー”や“ラフ・イン”などのテレビ番組のバラエティショーに主に出演した。1969年、彼女は新作“メイム”の舞台にアンジェラ・ランスベリーの後任役としてブロードウェイに戻り成功を収める。長いブランクの後、1979年にブロードウェイ作品“シュガー・ベイビー”で自己最大のカムバックを果たす。この作品はボードビル(寄席・バラエティショー)を讃える賑やかなミュージカルで、ミッキー・ルーニー他、MGMの大物スター達が出演した。このショーは3年間近く公演され、ミラーさんはトニー賞にノミネートされた。3回結婚し、1972年には“ミラーのハイ・ライフ”という自伝も書いている。(NYタイムズ)
|
メイ・オドンネル、97歳、振付家、教師、マーサ・グラハム・ダンサー
多くの人に影響を与えたモダンダンス界の大物、メイ・オドーネルさんが2月1日にマンハッタンにて97歳で逝去した。カリフォルニア州サクラメント生まれで、ニューヨークでマーサ・グラハムに師事する前は、エステル・リードと伊藤道郎のもとでトレーニングを受けた。彼女はグラハムのもとで1932〜1938年の間踊り、その後はカリフォルニアに戻って作曲家である夫のレイ・グリーンと、グラハム時代の同僚で友人のガートルード・シュアと共にサンフランシスコ・ダンス・シアターを創設した。1940〜1942年の間ホセ・リモーンとツアーをし、1944年にはグラハムのカンパニーに戻って9年間ゲスト・アーティストとして踊った。その間に彼女は“アパラチアの春”(1944年)の開拓者の女役、“ヘロディエイド”(1944年)の召使役、“ダーク・メドウ”(1946年)の大地の女神役、“心の穴”(1946年)のコロス役など、グラハム作品の主な役のオリジナルを踊った。オドンネルさんは“世界への手紙”“死と入口”“魂はみなサーカス”“プリミティブ・ミステリー”でも主役を踊っている。1961年に舞台から引退。1937〜1988年までは振付活動を行ない、モダンダンスの古典“サスペンション”を含む作品を創った。1949年、彼女はニューヨーク拠点のカンパニーを創立し、1980年代まで公演を続けた。記録が残されている50のレパートリー作品の中には、グリーンと共同制作したものが数多く含まれている。2002年にはマーサ・ヒル・ライフタイム・アチーブメント賞を受賞。影響力のある教師でもあった彼女の生徒には、ジェラルド・アルピーノ、コラ・カハン、ロバート・ジョフリー、ベン・ヴァリーン、ダドリー・ウィリアムズなどがいる。(NYタイムズ)
|
フレイデール・オイシャー、90歳、イディッシュ演劇のスター
1月5日、女優で歌手のフレイデール・オイシャーさんがマンハッタンにて90歳で逝去した。カンター(聖歌隊先唱者)の娘で、かつてロウアー・イーストサイドに多数あったイディッシュ劇場で子役として女優のキャリアを開始した。“小さなクイーン”“黄金の少女”“フレイデールの結婚”など彼女のために書かれたミュージカルに主演し、イディッシュ劇場の主な作品を専門とした。ショーの最後で実は少女であることが判明する「イェシバの少年」は非常に人気のある演目だった。「私はかわいくて、スリムで、すばらしい演技をした」とオイシャーさんは1996年にデイリー・ニュース紙で語っている。大人になってからは、女性が改正派及び保守派のシナゴークで歌うことを許されるずっと以前に、聖歌隊の音楽を舞台上で歌った最初の女性の一人となった。夫のハロルド・スターンバーグと共にアメリカ合衆国、南米、キューバをツアーし、フォークソング、ミュージカル曲、礼拝唱歌などを歌った。ベッサラビアのリプコン(当時はロシア領地、現在はモルドバ共和国の一部)に生まれ、音楽の名門一家の流れを汲んだ。彼女の弟、モイシュはイディッシュ演劇の大スターで有名なカンターであり、夫はブロードウェイのガーシュウィンのショーに数多く出演し、40年間メトロポリタン歌劇のコーラスで歌った。オイシャーさんの娘、マリリン・マイケルズは歌手兼コメディアン。(NYタイムズ)
|
ジェイソン・レイズ、28歳、“ライオン・キング”のスター
2月3日、俳優で歌手のジェイソン・レイズ・ローゼンバーグさんがオーストラリアのヤスにて28歳で逝去した。死因は自殺。彼はニューヨーク州オネオンタ育ち。“ジーザス・クライスト・スーパー・スター”のカンパニー・ツアーにポンティウス・ピラト(キリストの処刑を許可したユダヤの総督)役で出演した後、ブロードウェイのヒット作“ライオン・キング”で子ライオンの王子、シンバ役を獲得した。レイズさんがシンバ役の1997年オリジナル初演で、その後およそ3年間演じた。昨年彼はディズニーのアニメ映画“ブラザー・ベアー”で、氷河期の少年役デナヒの声優を務めた。レイズさんはこれまで家族との連絡を絶っており、彼がオーストラリアに住んでいたのか、それとも旅行で訪れていたのかもわかっていない。(NYタイムズ)
<updated on 4/5/04>
|
マラッチ・フェイヴァー、76歳、ジャズ・ベーシスト
Malachi
Favors
1月30日、35年間アバンギャルド・アート・アンサンブル・オブ・シカゴのメンバーだったジャズ・ベーシストのマラッチ・フェイヴァーさんがシカゴにて逝去した。享年76歳。死因は膵臓癌。シカゴに生まれ、朝鮮戦争時には軍役した。彼は1950年代後半にシカゴでベーシストのウィルバー・ウェア、イスラエル・クロスビーと共に学び、ピアニストのアンドリュー・ヒル、キング・フレミングと共演、サックス奏者のロスコー・ミッチェルと出会う。1960年代半ば、彼はミッチェルと共にピアニストのムハル・リチャード・エイブラムズのサークルへ移る。エイブラムズのバンド「エクスペリメンタル・バンド」は「創造的な音楽家振興協会」というジャズ界で強い影響力を持つ協同組合の発足を導いた。間もなくミッチェルは、フェイヴァーさん、ドラマーのドン・モイエ、トランペッターのレスター・ボウイ、サックス奏者のジョセフ・ジャーマンをメンバーにした「アート・アンサンブル・オブ・シカゴ」を開始。この非凡なグループはジャズとブルースの伝統的な要素に、西アフリカ音楽、詠唱、儀式、抽象サウンド、無音を組み合わせて、実験ジャズの道しるべとなった。彼らは生っ粋のミュージシャン精神に演劇的な要素を組み合わせたグループで、フェイヴァーさんは時々、エジプト語で「私がホスト」という意味の「マホスタット」という言葉を自分の名前に付け加え、モイエと一緒に大胆なスウィング・リズムを演奏した。1969〜1971年にグループはヨーロッパ・ツアーで成功を収め、12枚以上のアルバムをレコーディング。1972年にグループはアトランティック・レコードとのレコーディングを開始し、飛躍的に知名度を上げた。1978年グループはECMレコードに乗り換え、その後は日本のレーベル、DIWのためにレコーディングを行った。グループ最後のレコード制作(1999年に亡くなったボウイを除く)は“ザ・ミーティング”(パイ・レコーズ)だった。(NYタイムズ)
<updated on 3/13/04>
|
チャールズ ブラウン、57歳、舞台俳優
Charles
Brown
ブロードウエイの祭典トニー賞に2回ノミネートされた経歴を持ち、長年ネグロ・アンサンブル・カンパニーのメンバーだったチャールズ・ブラウンさんが1月8日にクリーブランドの自宅で逝去した。享年57歳で死因は癌。アラバマ州タレディガ生まれでヴェトナム戦争中には海軍として務めた。その後ハワード大学で演劇を学び、D.C.ブラック・レパートリーと共にクリーブランドのカラム・ハウスで芝居を続けた。ネグロ・アンサンブル・カンパニーで活動した17年の間には、レスリー・リー作“夏の最初の風”、スティーヴ・カーター作“ネイヴィス山の雫”、チャーリー・フラーのピューリッツァー受賞作“ある兵士の芝居”で主役を演じた。彼は2001年にオーガスト・ウィルソン作“キング・ヘドレー2世”でエルモア役を演じ、2回目のトニー賞にノミネートされた。1987年に出演したウィルソンの作品“フェンス”ではジェームズ・アール・ジョーンズの上の息子役を演じた。彼が初めてトニー賞のノミネートされたのは1979年で、その後彼の十八番となる、サム・アート・ウィリアムズ作“家”のセフィウス・マイルズ役。溌剌とした威厳のあるセフィウスは、北での生活で体を悪くした後、故郷ノースカロライナへ戻ってきた南部農民の役柄であった。ニューヨーク・タイムズは、「ブラウンはこの最も人間らしい役で感銘的な演技をし、芝居全体を掌に操りながら、彼独自の誠実さと説得力で役柄の魅力を高めた」と絶賛した。(NYタイムズ)
|