アーツキュアレビューニュースパフォーマンスカレンダー ワークショップカレンダージョブ&オーディション  
REVIEW 英語で読む
(c)2006 Dance Project SEQUENCE, Inc. All Rights Reserved.
本ウェブサイトに掲載の文章・画像写真などを無断で複製することは著作権法により禁じられています。
ダンス レビュー

ズル・ダンス/根付き

 



Performed at The Merce Cunningham Studio
Reviewed on 3/26 /2005
by R. Pikser
Translated by Tomoyo S. Huebler


まだ木ではない根

振付家がまず最初にしなければならないことは、自分が何を伝えたいのかを発見することです。他の作業はそれに付随します。情報伝達を的確にサポートする音楽、衣装、照明を見出し、ゴールを達成するのに必要な動きを考え、そして最後にそれらを組み立てます。昨年3月に行われた公演“根付き”で、ハヴィエ・ズルはこれらの要素に達したものもあれば、そうでないものもありました。ズルの現在の一番の弱点は動きの発見そのものにあります。彼の舞踊語彙は(少なくともポストモダンの締まりのなさはありませんでしたが)バットマンとジャンプと胸部のアイソレーションと腕を波打たせる動きに限られていて、多くの場面でその意図が明らかではありません。  ズルの作品は1997年の“ピカソとの出会い”から今年の“傷ついた心より”にかけて、確かに内容が手の込んだものになっています。前者は(マーサ・)グラハムの神話スタイルを思い起こさせるような作品でしたが、グラハムの作品が面白くあり続けるのに匹敵するだけの動きの源を見出してはいません。ズルの最新作は形やムーブメントを駆使して舞台の端から端まで使って動き、空間をより大きく使い、対位法的振付が見受けられます。しかし、彼の語彙はやはり非常に限られていて、何を言いたいのかがはっきりしません。動きの観点からいうと、この日のオープニングを飾った“イツカニル”の最初の部分が最も満足出来るものでした。ここではズルの舞踊語彙は、彼自身が衝撃的とも言える集中力をもって描き出した奇妙な半獣半神を完璧に表現していました。しかし残念ながら、その濃密さはロビン・テイラーに振付けた作品には伝わっておらず、また彼女もその振付に彼女なりの解釈を見出してはいませんでした。  ズル本人のデザインによる衣装は素晴らしいものでしたが、マリオン・タランによるものはそれほど魅力的とはいえず、動き辛そうです。生演奏あり録音ありの音楽は、様々な作曲家を起用しており、この日の公演全体を通して素晴らしいものでした。ただ、ダンスを見劣りさせるほどではなかったものの、ズルは音楽を自らの作品を支え、際立たせるものとして利用するというよりは、それに頼ってしまっているようでした。  ズルには自分の主張がはっきりしており、昨今においてそれは珍しい事です。彼はひらめきに長けてもいます。しかし、音楽や表現の奥深さを認識するほどには、まだ自らの可能性を洞察できてはいないようです。

芸術性 ★★
娯楽性 ★★★
斬新さ ★★
癒し度 ★★

(Updated on 4/28/06)

ダンス レビュー

コントラスト・ダンス・シアター/
ピアノトリオのためのカフェミュージック

 



Performed at Symphony Space
Reviewed on 04/10/05
by Celeste Sunderland
Translated by Naoko Akai-Dennis


ブロードウェイ風味の室内バレエ

録音された音楽がスピーカーから流れてくるだけのダンスパフォーマンスとは違って、ライブ演奏での舞台は殊の外パワフルです。同様に、ダンスを組み込んだコンサートは、体の動きによる音楽表現だけでなく、視覚的な刺激も与えることで、観客の経験をより奥深いものにしてくれます。室内音楽グループ、アメリカズ・ドリーム・チェンバー・アーティストは、“初めての公演フィナーレ”で、表現のミックスを用いています。コントラスト・ダンス・シアターを招待し、芸術監督クリストファー・フレミングにポール・ショーエンフェルド作曲の“ピアノトリオのためのカフェミュージック”に新しいバレエの振付けをさせました。  まず始めに、フランシス・プーランスの“風とピアノのための六重奏”と、モーツアルトの“フルート、ハープとオーケストラのためのコンチェルトハ長調K299番”が演奏されます。小さなテーブルが舞台のすみに引っ張りだされ、「カフェミュージック」の設定であるレストランを暗示するかのように、赤いバラとグラス一杯のワインが置かれています。バイオリニスト、サイラス・ベロ−キム、チェリスト、アラッシュ・アミニ、そしてピアニストのメリッサoマースがその小さなテーブルの側に座り、モーツアルトのヨーロッパ18世紀を後にし、ショーエンフェルドの1980年代のアメリカへといざないます。トリオがジャズとラグタイムの混じった曲を演奏すると、スパンコールが散りばめられたカラフルな衣装を身にまとった8人のダンサーが、賑やかに舞台に登場します。 バレエは三つの短い楽章で踊られましたが、明白な筋を欠いています。どうやら、男女関係を扱っているようですが、フレミングの関心はメッセージを伝えるよりは、彼のダンサーの熱心さを見せることにあるようです。バレエ、ジャズ、モダンダンスを組み合わせ、様々な奇抜なキャラクターに焦点をあてています。例えば、一人の女性ダンサーが片足を男性ダンサーの肩まで投げ上げると、男性は彼女を持ち上げ回転します。また、別の女性は足をバタバタさせながら、舞台から連れ去られます。セカンド・ポジションで、トゥで立つダンサーが太陽に弱ったひな菊のように身をよじらせる様は、メロドラマチックです。男性が肩越しに女性を後ろ向きにひっくり返し、彼女を舞台におろすと、次の瞬間彼女が片手で後ろ向きに回転するのを助けるといった、あっと思わせるような瞬間は見ていて興味深いのですが、素敵でエネルギッシュな振り付けは、結果的に正確さの欠如を浮き彫りにしています。ダンサーは気力に満ちあふれているのですが、クラシックバレエのテクニックとなると不足感を拭えません。それでも、ドラマティックな手首の回転や驚くようなアクロバッット的な技術には、ブロードウェイ・ショーのエッセンスが溢れていました。

芸術性 ★★★
娯楽性 ★★★
斬新さ ★★
癒し度 ★★

(Updated on 4/28/06)

ダンス レビュー

ナイカス・ダンス・シアター/
グロウ(輝き)

 



Performed at The Rubin Museum of Art
Reviewed on 03/17/05
by Celeste Sunderland
Translated by Tomoyo S. Huebler


伝統にポップの輝きを

ニューヨークのルービン・ミュージアムは南アジアの宝物が惜しげなく展示される美術館というだけではありません。去る3月には一週間、ナイカス・ダンス・シアター・カンパニーがこの美術館の舞台をインドの音楽とビジュアルと動きで満たしました。  華やかな衣装に包まれた5人のダンサーが、力強く複雑な、リズミカルなステップを踏むと、足飾りの鈴が鳴り、それがスピーカーから流れてくるインドのリズムに溶け込みます。ゆったりと彼らは彫像のようなポーズを作り、その動きとともに帯と首飾りが鈴の音を奏でます。 この公演、“グロウ”の大部分は南インドの古代舞踊オディッシーを見せるものでしたが、振付家のミナ・ムクハージは伝統の制約を破り、モダンダンスやヨガの要素も取り入れています。電子音楽の大きな音にのって、3人のダンサー達は大きく膨らむように優美に動き、手足を巧みに動かして様々なポーズを取ります。彼らは無表情な顔で何度も視線を交わし、緊張感を高めます。別の部分では、2人のダンサーが誘惑するように肩を廻し、ちらりと恥ずかしそうな視線を送り合います。その腕と手首は波打ち、あたかも二匹の蛇が互いを誘あうようです。  “グロウ”は映像も使っています。ある場面で使われた映像は、インドの女神の生活を描いた漫画を使ったものでしたが、この晩の古代的なテーマにとても楽しいポップな魅力を添えていました。また別の映像は、女性達の自己陶酔を描いた昔のボリウッド映画の華麗なモノクロシーンで、女達は化粧台に座ってメイクをし、ビンディをつけ、絹のサリーと金のアクセサリーを優美に身にまといます。  片方の手に剣を持ち、血に飢えた舌を口から巻き出す女神カリの物語が3番目の映像でした。「全ての見せかけを脱ぎ捨て、裸身で彼女は踊り、身に纏うのは宇宙と空だけ」と語り手が言います。すると映像はカリの9人の姉妹達の話になり、舞台には3人のダンサーが現れます。火のついたお香の棒を振り、その動きと表情とでカリと9人の姉妹の霊を呼び出そうとします。この部分では、機敏な動き、弧を描く腕、回転、足を上げる動きなど、ムクハージの振付は力強いものでした。  “グロウ”の生き生きとした色と流れるような動きは視覚を楽しませ、リラックス効果のあるものでした。群舞がもう少し揃えば、更に良かったでしょう。ダンサー達は、絶えず変化するリズムに合わせ、胴体だけを独立して動かせたり、体全体で動いたりというフォーマルな技術を披露できる素晴らしい能力を持ち、それぞれが自らの最高のレベルで踊っていました。内面の美しさに胸が震える舞踊でした。

芸術性 ★★★
娯楽性 ★★★
斬新さ ★★★★
癒し度 ★★★★

(Updated on 5/23/06)

ダンス レビュー

アメリカン・バレエ・シアター

 



Performed at City Center
Reviewed on 11/4/2005
by Tamsin Nutter
Translated by Naoko Akai-Dennis


素晴らしく見慣れているけど、素晴らしく変

 アメリカン・バレエ・シアターが毎年シティー・センターで催す公演シーズンが、また近づいてきました。この舞台はこのカンパニーの古い作品から新しい作品にいたるまで、豊富な短編作品を見られる良い機会です。2004年の秋には、モダン・バレエの発展を一括したような三つの作品が演じられました。バランシンの“モーツアルティアナ“、クリストファー・ウィールドンの“VIII”、そしてイリ・キリアンの“シンフォニエッタ”でした。三つのうちで一番コンテンポラリーであり、最も時代を超えていたのが、キリアンの奇妙だけども愛すべき1970年代の作品でした。  バランシンの“モーツアルティアナ”は、モーツアルト音楽の文句のつけようの無い魅力を描いて、優美な簡潔さとシンプルさを持っています。ヴェロニカ・パートが“プレギエラ“のソロを魅惑的に、官能的に踊りました。しかしながら、マキシム・ベロツェルコフスキーとのデュエット“テーマとヴァリエーション”では二人の間に繋がりがあまりなく、ヴェロニカは頻繁に下を見て、彼女の輝く内面性はうまく生かされていません。早い足捌きは彼女は得意としないようです。遊びがあって、かつ正確な足捌きは、ハーマン・コルネホの強みであり、彼が活き活きと演じた“ギグ”は、純粋に楽しい作品でした。  現代の世代はウィールドンの野心作“VIII”によって表現されました。これは、ヘンリー8世(アンヘル・コレーラ)と彼の二人の妻、アラゴンのキャサリン(パロマ・ヘレーラ)とアン・ボレイン(ジュリー・ケント)の物語です。他の作品に見られるような構想の統一を欠くものの、”VIII”は刺激的なくらいシューレアリスト的で映画的な物語の語り口で切り込みます。ヘンリーと二人の妻はそれぞれ、美しくも風変わりなデュエットを踊ります(しかし、そうした歪みは、ともすれば面白いというよりも、上品さを欠く結果を導くものですが)。ウィールドンは「モダン」な瞬間にあまりにたくさんの強調を置き、却って影を与えてしまい、動きのパターンも固いままです。しかし、コールド・バレエの踊りには素晴らしい動きがあり、生き生きとしつつも突飛で、そしていささか無粋に見えても、ダンサー達が床へ降りて行くあたりは面白いところでした。  美しく物語の無い“シンフォニエッタ”で、キリアンはフロアパターンとダイナミックな動きで巧みに遊んでいますが、その結果は素晴らしくヒューマニスト的です。偉大な芸術作品にふさわしく、動き、音楽、背景、そして衣裳が一体化しています。オーケストラの金管楽器セクションがステージの裾に並んで演奏し、ヤナセックの背中がぞくぞくするような音楽やトランペットとトロンボーンの金色の不協和音が、ウォルター・ノッブによる、うねうねとした丘が描かれた豪華な背景へと反射します。弧を描く男女の集団は、走り、跳び、そして着地し、大きな動きのパターンの合間に、目がくらむような予期せぬ小さな動き(お辞儀するような頭の動きや、目の前でゆっくりと手を動かすなど)を入れてアクセントをつけています。ABTのダンサー達は楽しんでいましたが、彼らのほとんどはソフトすぎるか、あまりにも無表情でした。もっと鋭角的なものや、荒々しさが必要です。しかし、それはたいした事ではありません。“シンフォニエッタ”はおそろしくロマンティックでありながら、斜に構えたものがあり(見慣れているけど、少し変といったもの)、私にはバレエの過去と未来の完全なバランスを保っているように思えました。

芸術性 ★★★★
娯楽性 ★★★
斬新さ ★★★★
癒し度 ★★★

(Updated on 4/18/06)

ダンス レビュー

ミャン・スーン・キム

 



Performed at the Dance Theatre Workshop
Reviewed on 7/9/2005
by R.Pikser
Translated by Mitsuko Matsumoto

アリラン:韓国の儀式ソロ
全ての人々に見せるための、見えないもの
 ミャン・スーン・キムの7つのシャーマニックなソロ作品のプログラムによると、“アリラン”とは定義し難いけれども誰もが知っている感情を表現しているそうです。それは人々の死という悲しい歴史のある丘のことであり、それは別れと離別の歌であり、それはまた新しい土地へ来る気持ちで有り、そしてそれは、政治的芸術家として迫害されたキム本人の遍歴を、過去そして現在へと表現するものであるのです。(彼女が北朝鮮を訪問する事は、韓国の法律に反したため、キムは1990年代の殆どを政治難民として海外で暮らしました。韓国政府は1998年、彼女を恩赦しています。)
 この夜の舞台は申し分のないものでした。飛び回る蝶々の群れと蓮の花で覆われた池のセットは、(照明の)エリック・C・ブルースによって美しく照らし出されました。キムは舞台後方の黒幕が少しあいているところで衣装を縫っており、その衣装は空へ舞い上がり、公演の間中、そこに漂い続けます。そしてキムは繊細に配置された本物の木々に囲まれながら横になって休みます。起き上がると、彼女は一つ目の衣装を身にまとい、レコードに合わせて鼻歌を歌いますが、その姿は全身ではなく一部しか見えません。この夜を校正する7つのダンスのそれぞれのダンスを前に、彼女は必ずこの半私的な世界に帰り、音楽に伴われながら幾重も衣装を重ねていくのを観客は見ます。
 衣装は、それぞれの踊りに応じるもので、なかには魔よけに関係するものであったり、繁栄への祈願が含まれるものもありました。プログラムには、各ダンスに関する歴史や意味の説明が掲載されていますが、それでもそうした事情に疎い者の目には、どのダンスも似た動きに見えてしまいます。おそらく、ダンスに共通したシャーマニックな根源によるものでしょう。踊りは踊り手/シャーマンを変容に導く、もしくは踊り手/シャーマンを宇宙のエネルギーの代弁とするもので、必ずしも舞台として面白いものではありません。この問題を縮小するよう、キムは大変努力を重ねたようですが、その点において成功しているかどうかは、見る側によって決まります。しかし、見る側によって決まらないもの、それは、キムがこれら古くからの伝統を維持し、韓国へ、北朝鮮へ、そして世界中に持って行くことの重要性にあるのではないでしょうか。

芸術性 ★★★★★
娯楽性 ★★★
斬新さ ★★★★
癒し度 ★★★

(Updated on 10/22/05)

ダンス レビュー

 

 

ブグリジ/フォアマン・ダンス

 

Performed at: The Joyce Theater
Reviewed on 1/26/05
by Eri Misaki

ダンシング・マシーン

    

 元、マーサ・グラハム・ダンスカンパニーのジャクリーン・ブグリジとドンリン・フォアマンが設立したこのカンパニーは、もうすっかりグラハム色から脱したようです。今年の彼らのニューヨーク公演では、若さ溢れるダンサー達の台頭が顕著でした。

 ブグリジ振付けの“雨”はミュージシャン達がドラムを叩きながら詠唱して始まります。熱帯の森を連想させる中、紗幕の向こうでダンサー達が踊り、何かを伝って落ちる水の映像が紗幕に映写されます。ダンサー達は、多くがジュリアード・スクールを出たばかりの、非常に美しく強いテクニックを持った初々しいメンバーです。動きを強調する場面があれば、ドラマ性のあるデュエットもありますが、振付けは主張に欠け、ダンサー達の動きと映像だけを見せる結果となりました。

 フォアマン振付けの“三つのデュエット”は、ブグリジとフォアマンの夫婦のこれまでを描いた作品。「もし、夢を失ったら…」は素晴らしくトレーニングされたクリスティーナ・マ−カスとデヴォン・レイニーが踊りましたが、表現に乏しく、最後に二人が抱き合って、互いに手を差し伸べ合ってはなれるところだけ、示唆を感じさせます。二つ目のデュエット「抱擁」では、福田純一がジェニファー・エマーソンと踊りました。激しく衝突することもあるけれど、永遠に一緒に歩き続ける夫婦を描いています。エマーソンはグラハムの表現法を引き継いだ、素晴らしいダンサーに育っています。一緒に踊った福田も良い演技でした。最後のデュエット、「…してる」は、ある意味で振付家からダンサーに課せられた課題と言えるでしょう。ヘレン・ハンセンとウオルター・シンキネラはユーモアーを交えて余裕を見せながら踊る風でしたが、結局ここでもテクニックの誇示に終わり、何を「している」のかは不明でした。しかし、彼らの楽しみな将来を見せたことから、敢てフォアマンの課題に答えを出すとすれば、「成長」という所でしょうか。

 最後の“組曲:私を抱く腕”もフォアマンの振付けです。彼自身の即興「静かな方法で」で始まります。グラハムやバレエのテクニックを含めた様々な動きをチェロの生演奏で行います。次の「カルテット」は彼を含める4人の男性の踊りです。若いダンサーに較べると流石にフォアマンの表現は抜群です。誰かと手を取ろうとすると、みんな倒れてしまい、そして彼自身も倒れる場面では人生の孤独を思わせ、しんとするものがありました。最後の「ラースト・コール」は4組の男女の踊りです。活発に踊る若い3組のカップルに対し、フォアマンとバニング・ロバーツのカップルはひたすらチークダンスのみ。峠を越えた、落ち着いた男女を感じさせます。これも、グラハムから独立してからこれまでの彼自身を描いた作品と言えるでしょう。

 ダンサー達はいずれも優れたテクニックを持つものの、表現力はまだまだです。どんな踊りも全て同じエネルギーで踊るので、その見事さに関心はしても、観客席のおじさんやおばさんは、いつの間にか疲れている自分を発見するのでした。

 

芸術性 ★★★
娯楽性 ★★★
斬新さ ★★★
癒し度 ★★


(Updated on 9/22/05)

ダンス レビュー

Photo: Stephanie Berger

パーソンズ・ダンス・カンパニー

 

Performed at: The Joyce Theater
Reviewed on 6/13/05
by Tamsin Nutter
Translated by Naoko Akai-Dennis

手に余る仕掛け

    

 デーヴィッド・パーソンズの最も有名な「仕掛け」は、天才的なアイデアでし た。単純なジャンプのソロ“コウト(捕らえられて)”を、重力に逆らう魔法に変形させたストロ ボライトがそれです。しかし、去年6月のジョイス・シアターでのパーソンズ・カンパニーの「古 典作品」プログラムで受けた印象では、仕掛けのせいで振り付けがぼやけてしまい、軽くなってし まっていることでした。ストロボライトくらいはまだ序の口です。スモークマシーンに、ロック コンサートのフラッシュ、それに人間ディスコボール…、まるでラスヴェガスのショーのようで す。  

  “森を光で埋めて”の始まりは期待させるものでした。懐中電灯を持ったダンサーが夏の蛍のように、暗い舞台を ひらひらと飛び回ります。しかし全体的には、一貫した芸術作品というよりは、照明デザイナーのポートフォリオのようです。あま りにも特殊効果があからさまなために、振り付けがひどくだるくなっています。逆さまになった裸の脚が小刻みに動いて空中をはい 上がったり(これはなかなかよかったのですが)、何百個もの豆電球を身につけた体が見えない人間(先ほどの人間ディスコボー ル)など、無関係な短い場面がどんどん続き、やがてカラーライトがけばけばしく点滅し、シルエットがポーズをとる、ラスヴェガ スもどきのフィナーレへと落ちて行きます。“エンベロップ(手紙)”もいい点はありますが、結局は不満足な出来です。一つのい いアイデアが、その限界を超えて展開します。すっぽりと頭を覆う帽子をかぶり、サングラスをかけた性別不明の者達が、配達でき ない謎の封筒をめぐってどたばたが起こります。しかし、一般受けしないほど変わっている訳でもありません。奇妙な出で立ちの郵 便配達人が、真剣な顔でバレエの動きを茶化すのは滑稽ですが、しかし、大して面白いものではありません。  

  新作の“最後の呼吸”は、残念ながら、この日最悪の作品でした。パーソンズ自身が舞踏に触発された動きで踊っ て、この世に生まれるときの律動から、いまわの際の呼吸にいたるまで、人間の一生を描きます。興味深いアイデアなのですが、あ まりに単純に表現されていて、ハウエル・ビンクリーによる重々しい視覚効果も役に立っていません。この作品を成功させるには、 もっともっと濃厚で本質的に神秘的でなければならないでしょう。しかし、観客はあまりにも漠然とした、明らかに内面の旅と思え るものに導かれます(惜しみなく出されるスモークの渦の中を、スローモーションで走るパーソンズの動きがそれを表しています。 )

  軽い、ハッピーではっきりした、花のような子供用のダンス“マイ・スウィート・ロード”で一番良かったのは、カ タルーチナ・スカーペトゥスカとスマヤ・マクレーの二人のダンサーで、特に一緒に踊っている時には素晴らしいものでした。今 だ人気のある“コウト”は、副芸術監督のエリザベス・コッペンによって無難に演じられました。最後のブラジル風の作品“ナシ メント”はいくつか魅力的な点もありましたが、派生的な振り付けは一度も山場を構築することがありませんでした。ダンサー 達は強靭でかつ楽しんでいるようですが、もっといい作品にふさわしいと思われ、同様の事が観客にも言えると思われました。

 

芸術性 ★★
娯楽性 ★★★
斬新さ ★★
癒し度 ★★


(Updated on 9/22/05)

ダンス レビュー

Photo: Jacques Grenier

La Pudeur des icebergs
(The Modesty of Icebergs)

 

Daniel Leveille Danse

Reviewed on 1/8/2005
by R. Pikser
Translated by Naoko Akai-Dennis

でも、彼は裸です…。

    

  自分のダンサーを裸にして見せるとは、ダニエル・レヴェレーはなんて賢いのでしょう。こうすると、観客は繰り返しばかりの振付けや、テーマのバリエーションや展開に気持ちがだれることなく、集中して見ているものがあるわけです。“質素な氷山”でレヴェレーは、ダンサーと観客を言葉以前の日常の物理の純粋さに連れ戻していると思っているようです。ミニマリズム指向の人には、彼の作品はなんらかの可能性を示唆するかもしれません。しかし、振付家は観客に時間と金を使わせる前に考える責任がある、と信じる私たちのような者にとっては、裸という案はちょっと面白いですが、残りの一時間の作品は永遠にも感じられたものでした。“質素…”は最初のリハーサルの週の最後に見せるプレゼンに似ています。アイデアはいくつか現れているけれども、まだそれに何もなされていない…。これがリハーサルなら少なくとも発見の新鮮さがあるというものです。レヴェレーは、いくつか面白い場面を作り出してはいます。例えば、長い官能的なセカンドポジションのプリエをしながら、ダンサー達は自らのモノの下を手を伸ばし、素晴らしい彫刻のような形を作り出すと、そっと自分の身体を愛撫するように立ち上がります。あるいは、作品の最後の方で、様々にペアになったダンサー達が力いっぱいお互いをリフトするという一連の場面。しかし、こういう瞬間はまれであると同時に、お互いに関連しあってはいませんでした。

  布という不要な仲介を持たない肉体を観ることは、もちろん興味深いことです。なぜ、芸術家がレオタードを着た肉体ではなく生の肉体を描くのか、考えてみれば分かる事です。体を構成しているそれぞれの部位の形は、肌という着物をまとった時のみ、躍動的なまでにはっきりとします。しかし、その他に見るべきものがないならば、私はむしろ絵のクラスを取ります。 

 

芸術性 ★★
娯楽性 ★★
斬新さ ★★
癒し度 ★★


(Updated on 9/13/05)

ダンス レビュー

Photo: Marianne Leach

Ballet Builders


Ballet Builders 2005


Reviewed on 4/10/2005
by R. Pikser
Translated by Rieko Yamanaka

新鮮さと追求の精神

    バレエ・ビルダースは、新鋭振付家と実績のある振付家に、創作と発表の場を提供する企画です。今年紹介された7人のうち6人が経験豊富な振付家で、特に中でも最もベテランの二人が、このシリーズに求められる新鮮さと冒険心を表現していました。

  ボニ−・シャイブマンによるオープニングの作品“スローダンス”は、社交ダンスとバレエを混合させて心地よく古典的に作られています。踊ったのは緊張気味なリディア・ウォーカーと丁重さに好感がもてたスティーヴン・ストローブでした。この作品は決して斬新ではありませんが、よく出来ておりバランスがとれています。ウォーカーは可憐ですが、顔を動かす時に視線を定めるように努めるべきです。見たところそうするようにと指導を受けていたようですが、舞台では少々戸惑った様子でした。

  ナッシュヴィル・バレエの芸術監督ポール・ヴァスタリングは、バッハのキーボード・コンチェルト第三番の一楽章にのせた“エフィメロ”を披露しました。オードリー・ハイドによるシンプルで効果的な衣装に身を包んだセイディー・ハリスとジョン・アップレジャーが、超然とも言えるほどクールな抑制を見せながら踊り、無表情な外見と、体を弓なりに反らしたり荒々しく放り投げたりする感情過剰な動きとの間にドラマチックな緊張感が生み出されます。この作品はダンサーたちに関しては、もう少しダイナミックな構成があればよかったと思いますが、それでもかなり面白く、ぞっとさせられる場面すらありました。

 この夜の逸品はジーナ・パターソンの“ノー・ディフェンス”でした。パターソンは独特のリズム感の持ち主で、動きのアタックや切り替えが普通のタイミングとは少しずれているにも関わらず、ぎこちなさを感じさせません。動きそのものも少々風変わりですが、それが観客の注意を引きつけ、予想を裏切ってくれます。カップルが別れる「海のない船」にしろ、「王と女王」でマ−ゴット・ブラウンがジム・スタインと共に瑞々しい演技を見せた『性の喜び』風のデュエットにしろ、幅広い強弱が表現されています。興味深いことにパターソン本人がエリック・ミッグリーと踊った「静かな夜」は、動きがもっとも特徴に欠け、踊りは美しかったものの、振付的には一番印象が薄い作品となりました。

 バレエ・ビルダースは今回も、見ごたえのある作品、考えさせられる作品、新鮮な目でダンスを見る機会、そしてぬるま湯に浸かりすぎた芸術感性への刺激をダンス・ファンに与えてくれました。

芸術性 ★★★
娯楽性 ★★★★
斬新さ ★★★
癒し度 ★★★


(Updated on 9/12/05)

ダンス レビュー

 

Theater for the New City


The Axis of Evil Vaudeville Revue II


Reviewed on 1/15/2005
by R. Pikser
Translated by Naoko Akai-Dennis

善人は天国へ行く

    国が危機に瀕すると、人は芝居を見に行きます。もし、自分が置かれている状況をどうにかし たいと思っていれば、人々は特に自分の怒りを表現する鋭い政治的な芝居を必要とします。 それを例として、どうしたらいいかを示唆してくれるような。すなわち、時代が常軌を逸っ しているときには、それに応じて芸術も突飛でなければいけません。しかし残念なことに、 “悪の枢軸、ボードビルレビュー2”は、普通の芝居でも、政治的な芝居でもいい評価を得 てきたマーティン・バード(原作、演出、作詞)とアーサー・アブラムズ(作曲、伴奏)の 手によるにも関わらず、現在の恐怖を表現したいという二人の思いが前面に出過ぎ、作品か ら距離を置くということを忘れています。その客観性の無さが効果を半減させ、芝居を不器 用なものにしてしまいました。

  アップテンポな曲も、ありきたりです。ブッシュの愚かさを嘲笑したり、ブッシュとチェイニーにタップダン スをさせたり、あるいは、常習犯のハリバートンとベシュテルを名指しにし、と、これというポイントは全部指摘しな ければとばかり、次々と上げて行きます。ちゃんと押さえている点も、あるにはあります。例えば、イラクで、アメリ カ人と友達になりたかっただけの子供を殺したアメリカ兵士の場面など。しかし、多くを詰め込みすぎたため、長くな り過ぎ、結果、二時間半の上演時間のテンポを重く引きずってしまいました。音楽も同様で、歌詞にフォーカスを置い た音楽というものではなく、ありふれたものになっています。歌詞が印象的でなかったのは理解出来ますが、それ以上 に音楽として作品を支えたり一般観客をひきこむものではありませんでした。もし読者がすでに現在の政治状況に失望 しているなら、このミュージカルを見ると更に落ち込むことでしょう。役者(特に、シャネル モブリーと、クゥイン  マーフィー)の、きびきびした演技にもかかわらず。 とは言うものの、この“コミュニテー・ボイス”シリーズに場所を提供したシアター・フォー・ザ・ニュー・シティ はお手柄です。始める所がなければ、後に続くものが成功を収める事はありません。“悪の枢軸2”は、政治的プロ パガンダを望む人には、的を得た答えにはなっていないかもしれませんが、他の同様の試みを勇気づけるかもしれない し、そうするはずです。その点で、バードとアブラムはそれを試みたという点で評価されます。

芸術性 ★★
娯楽性 ★★
斬新さ ★★
癒し度 ★★


(Updated on 9/12/05)

WIND FROM THE EAST

ダンス レビュー

Photo: Akira Miyamoto

矢作聡子


G#1-“夢の漂流物”によせて


Reviewed on 3/19/05
Performed at: 世田谷美術館講堂
by 吉田悠樹彦

20世紀の古典を生かして

  シュール・レアリズムに影響を受けた作品を発表してきた矢作聡子は日本を代表する美術評論家である瀧口修造の展 覧会の一環としてシュール・レアリズムにインスピレーションを得たダンス作品を発表しました。  

  暗闇の中から矢作が現れます。客席から現れた女はゆっくりと舞台に向かって歩いて行きます。センチメンタルな曲が流れ る中で女は舞台の上で自己を確認するようにゆっくりとうごきはじめます。踊り手は手で自己の輪郭を表現するように動いたり、身体を折 り曲げたりします。次第に踊り手の足の間から赤い糸が垂れ、踊り手は糸を肉体に絡め出します。日本のシュール・レアリズムとも関連が ある暗黒舞踏でも良く見られるような表現です。しかし暗く重々しい舞踏の表現と比べると、明るく幻想的といえます。幻想的な女性を描 く画家の1人である合田佐和子の作品のような女性を描写したかと思えば、人工的な人形で知られるフランスの人形作家のハンス・ベルメ ールの人形を思わせる、人工的なエロスを感じるポーズをとります。シュール・レアリズムの影響を受けたマヤ・デーレンのような作家の 表現には内向的な重々しい表現が多く見られました。矢作もまた作家の内面を描きますが、その表現には明るさもあります。ゆっくりと踊 り手が舞台に腰掛けると、踊り手の背景に遠藤豊の映像が降り注ぐ星を映し出します。どこか懐かしいファンタジックな世界となり舞台は 終わります。  

  矢作はコンテンポラリー・ダンスの中でも積極的に活動をしている作家の1人です。最近ではシュール・レアリスティック な絵本「Alicetopia」からインスピレーションを受けた作品(同タイトル)を発表するなど、フランスから帰国後も活発な活動を見せていま す。現在ではシュール・レアリズムはコンピュータ・グラフィックスまで影響を与えている20世紀の古典の1つです。映像作家など幅広いジ ャンルの作家達と関わり合うことで、さらに21世紀の舞踊や芸術概念の確立をする事が、この作家のこれからの課題である様に思います。フ ランスから帰国し、さらに磨かれた感性が近未来に描き出す軌跡が楽しみな作家です。

芸術性 ★★★★★
娯楽性 ★★★★
斬新さ ★★★★
癒し度 ★★★★★


(Updated on 8/2/05)

WIND FROM THE EAST

ダンス レビュー

photo Hiroyasu Daido

Kappa-Te


〜あの日の〜 


Reviewed on 11/08/05
Performed at: マチネ Theater Brats
by 吉田悠樹彦

20世紀の古典を生かして

 Kappa−Teは新進のコンテンポラリーダンスグループです。武元賀寿子DanceVenusのレッスンに集まったメンバーによって結成され、各々がソロダンサーとして活動を行いながらも過去に数回公演を行ってきました。Kappa-Teとは北海道地方の方言で、直訳すると日本の空想上の動物である河童の手という意味です。緊張したときに手に汗握るというニュアンスの言葉から演じる側と見る側の状態を言い表しています。
 柴田恵美による「あの日の。」はアブストラクトな作品です。舞台いっぱいにビニールの中に女達が現れます。ビニールでくるまれた肉体達はそれぞれにポーズをとっています。戦後の日本のポストモダンダンスからの影響を感じる演出ですが、振付と世界観はより新しい世代のものです。例えば踊り手たちがかがんだ姿勢で一列にラインをつくる事で構成美を生み出すといった独特な表現も登場します。内面を強く押し出し過ぎない等身大で自然な渡辺久美子と川上暁子の表現はグローバルな環境の中で生きる日本人女性の姿を感じさせます。さらに遥か彼方を見るような表情でたたずむ村岸もと子は作家達の遠い彼方や未来への視線を描きます。踊り手の横でベースがリズムを刻むシーンはラバンセンターもある英国のダンスを感じさせました。アブストラクトで非常に接しやすい作風です。白井麻子の「計り知れないこと」は時間に正確な東京のようにすんなりいかないロンドンでの都市生活から生まれた作品です。ファッショナブルな踊り手が腕を大きく広げる事で新たな世界への憧憬を描いたかと思うと床に倒れる事で自身の姿と向かいあいます。栗山基子は帽子を目深に被り観客を見つめながらじりじりと後づさりをすることで新しい世界との出会いを描写します。より細部を磨き上げることで効果が高まる作品です。白井は完成度が高い作品も発表を発表しだしているとても楽しみな作家です。メディアを駆使した活動でも知られるイギリスのDarren Johnstonはゲストとして「Oblivion」を上演しました。点滅するライトの下でゆっくりと踊り手が姿勢を変えていくと、動く彫刻のような効果が生まれました。
 このグループは多様な踊り手のバックグランドが有機的に織り成される事から若々しい感性とエネルギーが満ち溢れています。作業やトレーニングを通じて共通する深みを探り当てる事でその可能性を加速させる様に思います。

芸術性 ★★★★★
娯楽性 ★★★★
斬新さ ★★★★★
癒し度 ★★★


(Updated on 04/18/06)

WIND FROM THE EAST

ダンス レビュー

 

水と油


"移動の法則"


Reviewed on 2/18/05
Performed at: 新国立劇場小ホール
by 吉田悠樹彦

オタク的ではない開かれた笑いの世界

  日本のコンテンポラリーダンスの中でもマイム出身という事で話題をまいているのが水と油です。 2001年ごろから一気に人気を集め好評をあつめました。     

  今回は日常の中にある超現実的な世界が作品に描かれています。白い壁が印象的な空間の中に、ビリヤード台と家具 が置かれています。4人が舞台に現れるとビリヤードがはじまります。メンバーが仕草を中心に、ユーモラスに、ビリヤードに 興じる面々を描いていくと、やがて客席から笑い声が沸いてきます。劇場のみではなくストリートで活動をしていたアーティスト による実力ある表現です。ビリヤードの玉を手で持って宙を動かすじゅんじゅんには愛嬌があります。  

  次第にゲームが進む中で情景は次第に変わっていきます。例えばビリヤード台を診療所のテーブルに例えて、患者とカ ルテを書く医者のユーモラスに溢れた世界が描かれたと思えば、レストランで語り合う男と女という世界にといった次第に情景が 変わっていきます。いずれもユーモラスな、コントのような世界です。  

  中でも印象的なのが美術館の一室のようなシーンでした。美術館員を演じるおのでらんが椅子に座っているところへ、 すがぽんが登場します。すがぽんが絵に落書きをはじめると館員は怒って止めるような仕草をします。そこへももこんが現れ、 絡み合う二人の中に入っていきます。ももこんは悪戯好きですがぽんが、ゴミを捨てていいないのに館員にゴミを捨てているよ うに見えるよう仕向けたりします。そんな風景を踊り手はマイムのような仕草とダンスの動きを入り混ぜて描いてきます。  

  今回の公演は劇場空間そのものが広い事から、いわゆるダンサーほど動きがなく、せりふが少ない作家の表現と観客 の間に距離が出来てしまうという課題があったように思います。  

  しかし時流に流されないユーモラスな表現には魅力があります。ベネチア・ビエンナーレの日本館ではオタククロー ズアップされました。日本ではダンスに関しても自分が好きな傾向の作家の作品しか見ない「オタク」的なダンスの鑑賞法が 多くなってきています。また漫画やアニメーションの社会に於ける普及から「オタク」が慣れ親しんだ漫画のような「笑い」 を感じさせる作品が多い昨今です。しかし彼らのユーモラスな表現は非常に親しみやすいもので、オタクの生活する個人の個 室ではなく、ストリートで鍛えられた強さがありました。

*ももこん、すがぽん、おのでらん、じゅんじゅん パフォーマーの名前

芸術性 ★★★
娯楽性 ★★★★
斬新さ ★★
癒し度 ★★★


(Updated on 8/1/05)

WIND FROM THE EAST

ダンス レビュー

 

勅使川原三郎 +KARAS


"風化" KAZAHANA 


Reviewed on 2/4/05
Performed at: 新国立劇場中ホール
by 吉田悠樹彦

勅使河原、新たな一歩

 

  日本のコンテンポラリーダンスを代表する作家である勅使川原三郎の新作は久々に新し い境地を感じました。  山奥の静寂な竹林の様に無数のラインが舞台前面を埋め尽くし、左右に広が っています。その中で踊り手が踊りはじめると、青白く光る立体の中で踊る踊り手たちの世界は、サイ バースペースのような情報空間を感じさせます。スリットで区切られることで舞台美術は格段に違いを見 せ、作家の思考は肉体を彩ります。  

  この作品には日本のみならず、ヨーロッパやアフリカから等、様々な国の踊り手達が参加をしています。このよ うな様々なバックグラウンドを持った踊り手たちよる多様な動きの中に、思考としての勅使川原の動きが現れます。踊り手達の肉 体は感情表現も豊かに踊ったかと思えば、舞踏のように抽象的で思考を感じさせる動きに変わります。「無国籍なダンス」という 言葉が東京の舞踊作家達の間から出てくるこの頃ですが、こういった肉体の多様な世界はグローバリゼーションを感じさせます。  

  一方で、踊りだけではなく、舞台やダンスという概念そのものを総合的に見ようとする作家の考え方はより強くな ってきています。この作品では舞台美術も見事ですが、ダンスそのものを生かしたシーンにも勅使河原のアイデアは映えました 。特に宮田登が舞台を踊り走っていくと、それに伴って肉体から粉が飛び散り、粉が踊り手の踊った跡を描いていくシーンは圧 巻でした。  90年代の勅使川原は「白塗りにしないで舞踏を踊る」と言われる動きや、こういった総合的なダンスに対する視 点から脚光を浴びてきました。名作「ルミナス」以後、しばらく舞台美術に重きを置く作品が続きましたが、この作品では、久々 に動きと舞台美術それぞれがバランスがとれた世界を見せたようです。近年、マンネリ感があった勅使川原の新作には新しい持ち 味がありました。  様々な側面を見せる肉体表現から新しい動きに対するアイデアや思考が生まれてくると、より新しい展望が あるのではないかと感じます。また90年代以後の活躍から,日本のコンテンポラリーダンスのスター的な存在になり大劇場での公 演が多くなりました。しかし、時折、かつての小劇場やスペースでの公演のように日本のオーディエンスの近くへと戻ってきて欲 しい作家の一人です。

芸術性 ★★★★★
娯楽性 ★★★★
斬新さ ★★★ ★★
癒し度 ★★★★


(Updated on 8/1/05)

ダンス レビュー

Photo: Damir Yusupov

ボリショイ・バレエ


"ブライト・ストリーム"


Reviewed on 7/25/05
Performed at: Metropolitan Opera House
by Eri Misaki

笑いながら堪能するバレエの粋

  “ブライト・ストリーム”は、1935年にアグリッピーナ・ワガノワが、ヒョードル・ロプコフ の台本を元にドミトリー・ショスタコヴィッチの曲に振付けたものの、当時のソ連政共産党政 権によって上演を禁止されました。恐らく、非常に政治色が濃い作品だったと想像されます。 これを現ボリショイ・バレエ芸術監督のアレクセイ・ラトマンスキーが再製作して2003年に初 演しました。プログラムには、スターリン政権下に生きた人々とアーティストを讃える、とい うラトマンスキーのコメントが入れられています。  

 ソ連の集団農場ブライト・ストリームの収穫祭に出演するために、モスクワのバレエ団が来ます。ジー ナは昔はダンサーでしたが、今はこの農場の士気管理官で、夫のピョートルはそれを知りません。彼女は到着したバ レエ団のバレリーナが昔のダンス仲間だった事に気付き、二人は大喜び。ところが、ピョートルはバレリーナにぞっ こん参ってしまい、ジーナを悲しませます。そこでバレリーナは一計を案じ、二人の仲を修復する事に。そんな三人に、 バレリーナのパートナー、中年のダーチャ住人の夫婦が絡んで、抱腹絶倒のどたばた喜劇が展開します。結局、ジーナ とバレリーナがマスクを着けて一緒に踊った時、ピョートルは妻が優秀な管理官であるだけでなく、トップクラスのダ ンサーと知って、惚れ直すのでした。  

 ジーナを注目される若きスベトラーナ・ルンキナが、ピョートルをウラジミール・ネポロズニーが、バレ リーナをマリア・アレクサンドロワが踊りました。ルンキナとアレクサンドロワは体格もそっくり、テクニックも互角 で、最後に二人がマスクを着けて踊る時は、ピョートルのみならず観客にも見分けが付きません。二人とも、細く長い、 繊細なラインで、表情豊かに踊ります。一方、ネポロズニーはハンサムで背が高く、手足の長い華のあるダンサーです。 アメリカのダンサーの様に数え切れないピルエットは出て来ませんが、充分観客を納得させる優雅な技術を持っています。  

 一方、バレリーナのパートナーを踊ったヤン・ゴドフスキー、中年夫婦を踊ったアレクセイ・ロパレヴィ ッチとイリーナ・ジブロワはユーモラスなダンスで観客を笑わせました。特にゴドフスキーは白いロングチュチュを着 てポアントを履き、ジゼルのシルフの振りを踊って、劇場を爆笑の渦に巻き込みました。  

 振付けは音楽に非常に忠実で、ダンサー達も音楽を大切に踊っていたため、とても気持ちよく流れます。 しかし、物語の表現という意味では、プログラムに書かれたあらすじに頼る部分も伺えました。残念だったのは、衣裳 が役割を代弁していないため、見ていて混乱するのと、セットが仰々しく安っぽかった事。しかし、美しいダンサー達が 優れた技術でコミックバレエを踊るのを見るは楽しいものです。この日、終演後に舞台の上で芸術監督のラトマンスキー によってルンキナはプリンシパルに昇格されました。

芸術性 ★★★★
娯楽性 ★★★★★
斬新さ ★★★
癒し度 ★★★★★


(Updated on 7/26/05)

ダンス レビュー

Photo: Erin Baiano

アメリカン・バレエ・シアター


"白鳥の湖"


Reviewed on 7/5/05
Performed at: Metropolitan Opera House
by Eri Misaki

ベテランが代打プリンスの脇固め、ゲストスワン輝く

  今年のABTの話題の一つは、マリンスキー・シアターのプリンシパル、ディアナ・ヴィシュニュ ーワの客演でした。しかしケヴィン・マッケンジー版“白鳥の湖”では、最初はウラジミール・ マラホフと発表された彼女の相手役が本番数週間前にマクシム・ベロツェルコフスキーに変更さ れ、更に直前にベロツェルコフスキーの負傷のため、ソリストのジェナディ・サヴェリエフが演 じて、観客を驚かせました。世界に誇るプリンシパルを多く抱えるABTですが、いざという時に肝 心の人材が負傷や客演でおらず、大役を割り当てられた形のサヴェリエフ,大バレリーナの胸を 借りての大舞台となりました。この大きな番狂わせに、マッケンジーは代打プリンスの脇をベテ ランで固めるという作戦に出ました。

 第一幕で最も目を引いたのは、ベンノを演じたハーマン・コルネホが率いるパ・ド・トロワ。一緒に踊るはプリ ンシパルのシオマラ・レイエスとコールドのユリコ・カジヤ。コルネホは驚く様な高いジャンプと強いピルエットで舞台 を独り占め、レイエスは表情のある踊りで、ともすれば退屈なこのトロワに色彩を加えました。カジヤはこれも堂々とし た良い演技で、もっと起用して欲しい美しいダンサーです。おかげで非常に充実した見せ場となりました。この他には、 王妃をジョージナ・パーキンソンが演じて、さすがの貫禄を見せました。

 ヴィショニューワの白鳥の出は、まるで白い矢が飛んで来たかと思わせるインパクトを与えました。オデットの 彼女は憂いがこもった踊りで、上体をしなるように大きく使い、美しい腕の扱いは観客をもトランス状態に引き込みます。 しかし、黒鳥のオディールになった時は、真っ赤な口紅で勝ち誇った笑みを浮かべ、相手を睨み据える様な踊りをします。 黒鳥のパ・ド・ドゥでは敢て音楽を早めて、目が覚める様な32回のフェッテ・ターンをやってのけました。彼女が踊ると、 音楽が強く大きく聞こえる様でした。

 もう一人特筆すべきは、人間に化けたロッドバルトを演じたサーシャ・ラデツキーです。この役は鳥肌立つセク シーさと怖さを同時に持つ役ですが、テクニックと言い芝居と言い、ラデツキーは見事にこの役を消化しています。

 残念だったのは、このカップルは一瞬たりとも愛し合っていなかったこと。何といっても、豊かな表現力を備え たヴィシュニューワに対して、サヴェリエフの経験不足がその原因と言えます。しかし、彼女を立派にサポートするとい う大役は見事果たしました。そしてヴィショニューワの素晴らしい演技は相手役の未熟さを補って余りあるものでした。

芸術性 ★★★
娯楽性 ★★★★
斬新さ ★★★★
癒し度 ★★★★


(Updated on 7/26/05)

ダンス レビュー

Photo: Damir Yusupov

ボリショイ・バレエ


“スパルタクス”


Reviewed on 7/22/05
Performed at: Metropolitan Opera House
by Eri Misaki

20世紀クラッシックの記録

  18年ぶりにメトロポリタン・オペラハウスにボリショイ・バレエが来ました。 大きな劇場に見合う、大型バレエを4つ引っさげての今回のニューヨーク公演、 そのうちアラム・ハチャトゥリアン作曲、ユーリー・グリゴローヴィチ振付けの“スパルタクス”は、 まさに20世紀バレエの象徴とも、古典とも言えるものでしょう。

 紀元前1世紀のローマ帝国。将軍クラッススは近隣諸国を侵略して人民を奴隷として捕らえて来ます。 その中にスパルタクスとその妻フリージアも含まれていました。フリージアはクラッススの奴隷となります。 クラッススの宴の余興に、仲間を殺さなければならなかったスパルタクスは奴隷達と決起、 反乱を起こして妻を助け出します。破れたクラッススはスパルタクスの温情で死刑を免れ、追放されます。 クラッススの愛妾エジーナはクラッススを焚き付け、スパルタクスに復讐の戦いを挑ませ、 再び権力を取り戻そうとします。エジーナは女達を率いてスパルタクスの軍の士気を落とし、 そのためスパルタクスは破れて殺されます。彼の妻、フリージアは夫の死を悲しみながらもその勇気を讃えます。

 バレエには珍しく男性をテーマにした、ボリショイ・バレエの十八番の一つです。 グリゴローヴィチの振付けは非常に分かり易く、時折モノローグとして登場人物の心情を表現するソロを入れてあります。 19世紀ロマンチック・バレエの様に、白いチュチュのコールドをわんさと入れた「ビジョン」が無いのも、 20世紀バレエの特徴です。この勇壮なバレエは、音楽に乗って流れる様な振付けよりは、 大きなリフトが満載されているのが特色で、この作品を踊るためでしょうか、 ボリショイ・バレエの男性はがっちりした体格の男性が多いのも事実です。

 今回スパルタクスを踊ったユーリー・クレフツォフはまさにそういったがっちり型のダンサーで、 凄まじいばかりの勇壮さと迫力で演じました。一方、クラッススを踊ったアレクサンダー・ヴォルチコフは、 むしろ現代的なダンサーで、長い優雅なラインで、力を抜いた、洗練されたテクニックを持っています。 フリージアを踊ったアンナ・アントニシェヴァは、長い四肢と強いテクニックを持つダンサーで、か弱く可愛い役を、 美しいラインで踊りました。大切な役柄のエジーナは、コケティッシュで貫禄たっぷりのマリア・アラッシュが踊りました。 したたかな彼女の踊りは、見事に役柄を描き出しています。

 難を言えば、衣裳が時々役にそぐわないと思われるものがあったくらいで、滅多に見られる事が無い、 20世紀クラシックを見る事が出来た、良い舞台でした。 ボリショイ・オーケストラの指揮はパヴェル・ソロキンによるものでした。

芸術性 ★★★★
娯楽性 ★★★★★
斬新さ ★★★
癒し度 ★★★★


(Updated on 7/25/05)

ダンス レビュー

Photo: Kazuto Shimizu

日本のコンテンポラリー・ダンス・ショーケース



Reviewed on 1/7/05
Performed at: Japan Society
by Eri Misaki

何のため、あなたは踊る?

  ジャパン・ソサエティで行われた日本の“コンテンポラリー・ダンス・ショーケース”の冬のシーズン では5つの作品が紹介されましたが、今年も作品の意図に戸惑いを感じるものが多く見られました。

 黒田育代率いるBatikの“SHOKU(触)”では、真っ赤なドレスを着た女性達がでんぐり返しをしたり、パートナーの 髪をかき回す等、常識を覆す動きが印象的です。延々と続くポストモダンダンスの後、一人の女性がスカートをめくって下着 に手を入れ、ハアハアと激しい息づかいした時、やっと作品のタイトルの意味に思い当たります。これが本当に彼らが伝えたい 事であれば、音楽や踊りは必要ないでしょう。

 舞踏グループ「青空千日前ダンス倶楽部」の“夏の器”には様々な夏のイメージが織り込まれて居ますが、作品の意図 が曖昧です。4人の女性で一匹のセミをしゃがれた声のジャズ歌唱で表現したものがこの作品では唯一出色な場面でした。選曲 といい、動きといい、何か惹き付けるものがあるグループですから、もう少し創造性に発展が欲しいものです。

 モノクローム・サーカス(代表/振付:坂本公成)の“泡沫(うたかた)”は男女のトリオによる映像を交えたポスト・ モダンダンスですが、ストーリーも無ければイメージもまさに泡の様に瞬時に消え失せます。あくびと闘う一時でしたが、この作 品はポストモダンダンスの重要なポイントを見せました。ポストモダンダンスはダンスを中性的なものにし、踊りを男性の手に戻 したと言えます。

 金森穣率いるNOIZM05の“Last Title(ラストタイトル)”は5人の洗練したバレエダンサーによって踊られます。幾何学 的な形を舞台の上に常に維持し、その中でぴたりと息のあったデュエットやユニゾンと美しいラインが楽しめます。バレエである 事を外しませんが、奇妙なものも恐れずに取り入れてある作品です。しかし他の作品同様、ここにも「だから何なの?」という欲 求不満が残ります。

 森山開次のソロ“刀”は、この日唯一芸術的な満足感を覚えるものでした。体を白塗りにし、金髪を後頭部でくくった森 山の強靭な筋肉と腕の構えには、しっかりした踊りの基礎が伺えます。形に捕われない美しい動きが流れ、ヨガを連想させる動き があるかと思うと、次の瞬間バレエのツールを変形させたような回転を空中に放ちます。まるで厳しく鍛錬された若侍を見る様で、 そこには確かな美しさがあります。音楽も刀とは全く違うイメージのものを持って来ていますが、鋭い切れ味が伝わって来ます。 日本刀の無機的でありながらもそこに潜む精神を、動きで見事に表現しました。

芸術性 ★★★★
娯楽性 ★★
斬新さ ★★★★★
癒し度 ★★


 

(Updated on 6/29/05)

シアター レビュー

 

イザベラの部屋




Performed at Brooklyn Academy of Music
Reviewed on 12/18/04
Written by R. Pikser
Translated by Naoko Akai-Dennis

私にとってアフリカとは?

 
 “イザベラの部屋”の作者兼演出家ジャン・ローウワーズは、自分の父親が前ベルギー領コンゴから集めたアフリカ芸術に内在する、おそらく魔法のような影響力を出発点として、亡父に捧げるためにこの作品を創作しました。ローウワーズは「形」に関して「なにか」を知っています。また、劇場へ人が足を運ぶのは、みめ麗しい若い人たちを観るためと、わくわくするためであるというのも知っています。ですから、作品には、美しいアートあり、そこそこに興味深い音楽あり、魅力的な半裸で飛び跳ねる若者たちあり、セックスそして近親相姦までもが含まれています。芝居のテーマは、どんなことがあっても人生は続くということ、そして私たちにできるのは最善を尽くし、与えられたもので生きる、ということのようです。

 しかし、この作品をシリアスに捉える価値があるものかどうかを考えてみると、他の質問が自ずと浮かび上がってきます。90歳のイザベラは、二つの大戦や植民地主義を含め、20世紀のほとんどを生き延びてきました。しかし、彼女は感動する事は何もなかったようですし、彼女自身それを認めています。自分のアフリカの芸術品と共に生き、それを愛していますが、植民地主義というあまりにも大きな伝統のなかで、芸術品は彼女の所有物でしかありません。それらは彼女の手元に残されたもので、どうやって彼女の手にたどり着くことになったかは、彼女の責任では無いのです。巨大なペニスの黒人との一晩だけの出来事で、お定まりの様に妊娠した事が、大して彼女の責任ではないのと同じように。

 こういう問題に触れることと、扱うのとは同じではありません。ローウワーズはこの作品では手を抜いたか、深く考えなかったかのどちらかです。美しい肉体を見る事が、人の心をつかんではなさないダンスにはならないように、出来事の参照を羅列するだけでは、それらに取り組むことにはなりません。また、自分は関わっていないと明言しても、内容の無さを埋め合わせるものではありません。“イザベラの部屋”は本当に部屋だけです。観たり聴いたりするには楽しいものであふれていますが、理解してもいなければ、正面から取り組んでいるものでもないのです。もっと観客に栄養を与えることもできた筈です。しかし、私達が頂いたのは、中がすかすかのメレンゲ菓子のようなものでした。

芸術性 ★★★
娯楽性 ★★★
斬新さ ★★
癒し度 ★★


 

(Updated on 9/27/05)

シアター レビュー

杉原千畝、
日本のシンドラー


Dora Theatrical Company


Reviewed on 10/24/04
Written by R. Pikser
Translated by Marie Cochrane

ベスト・オブ・マン

 1939年、外交官の杉原千畝(ちうね。せんぽと海外で愛称される)は、リトアニアのカウナスの日本領事館の領事でした。 ドイツ・ナチスがポーランドに侵攻して何千人ものユダヤ人が国外に命からがら逃げ出したとき、中立国のリトアニアへも その一部が逃れてきました。他に受け入れる国はなかったのです。オランダ領事館は彼らにオランダのキュラソーへのビザ を発行しましたが、事実上オランダもナチに占領されていたため、もうビザの発行はできなかったのです。杉原は、日本の 外務省からの命令に背向き、オランダのビザが無効であることを気付かぬ振りをして、自らの判断で何千ものユダヤ人に 通過ビザを発行し続けました。できるだけ多くのユダヤ人が、まもなく占領されるリトアニアからが逃げ出し、ソ連を渡って、 せめてオランダ領アンティル諸島へ辿り着くチャンスを与えたのです。  

 コウイチ・ヒライシが脚色した杉原の物語では、杉原だけでなく、逃走する2つのユダヤ家族にも焦点を当てています。杉原が地味に描かれている分、 それらの家族らは、小さな出来事や言い争い、ユーモア、否定的な見方や希望など、彼らが生活の中で味わう酷い出来事にあらゆる意味で人間的な規模を与え ています。それ以上に、この芝居は一人の男性の善良さを描いているのではなく、私たちが一人一人が人間として、どこまで同胞の人間に責任が持てるのか、 その度合いを描いているのです。ソ連の侵攻により彼自身に危険が迫り、領事館が閉鎖されて、新しい任地のベルリンに向かう列車に乗り込むとき、杉原千畝は、 できるだけのことはやった、と言えるのでした。他の逃亡者のために自らの命を犠牲にした、自主組織のユダヤ人難民委員会のメンバーも同じことが言えるで しょう。日本軍の侵略と戦うため、故郷に戻った杉原の中国人コックも同様です。決して高潔な人格とはいえない領事の秘書すらも、自らの許容の限界を乗り 越えることを学びます。杉原千畝も一瞬の疑惑に陥り、自らの考えを強めるために、妻の強固な支えを必要とします。この芝居はまさしく、人間の繋がりを描 いている物語です。ヒライシとショウイチ・ヤマダのゆったりとした演出は、観客も杉原のように、助けを必要とする者に、その命を救うために、できるだけ のことはやった、と言えるかどうか、考える時間を与えてくれます。

芸術性 ★★★
娯楽性 ★★★
斬新さ ★★★
癒し度 ★★★★★


 

(Updated on 6/20/05)

シアター レビュー

Photo: Sonoko Kawahara

桜の園:フィールスの夢

2004年・チェホフ・ナウ・フェスティバル


Reviewed on 11/7/04
Written by Celeste Sunderland
Translated by Marie Cochrane

変わりゆく世界においてなびくはかなさ

 演出家河原園子が自ら脚色したアントン・チェホフ原作“桜の園:フィールスの夢” で打ち出した通り、孤独の世界に性別は関係ありません。この演出では、原作では男 性の執事のフィールスが女性の家政婦となり、ドーン・エシェルマンがじっくりと熱 演します。彼女は二つの世代にわたってこの屋敷に勤めてきたにも関わらず、この騒 々しい家の中でろくに気付かれもせず漂う自分に気付きます。やがて、完全に忘れ去ら れた彼女は、寒い冬空の下、鍵をかけられたがらんどうの屋敷の外に一人取り残される ことに…。  

 コネリー・シアターで開催された第5回チェホフ・ナウ・フェスティバルの一環として、この芝居は、 実際は最終シーンであるこのシーンで幕を開け、何かが間違っているという雰囲気と、わびしいノスタルジアを醸 し出します。がらんとした舞台は登場人物それぞれをくっきりと浮かび上がらせ、次々に繰り広げられるシーンを 通じて優れた役者達が、年中行事になれば現れる変わり者の親戚のような登場人物達を無愛想に紹介して行きます 。このメンバーは突飛な個性で活き活きしている事を除けば、どれもこれも頭がちょっとオフビート。そして皆が 屋敷に集まるにつれ、彼らの野心が浮かび上がります。  

 ワイルドな家庭教師シャルロッタ役は、レイチェル・ニューマンが生意気かつ陰鬱に演じます。子供たち はすっかり成長していますが、彼女は腹話術や手品で家族を楽しませて、屋敷に居残っているのです。変人の事務 員エピホードフ役はデーヴィッド・アルトマンがさりげないユーモアで演じており、自分には「毎日なにかしら不 幸がおこる」と宣言します。そしてエスラ・ガフィンは怒りっぽいメイド、ドゥニャーシャとして印象的でした。 彼らは、キャサリン・オニール・トリード演ずる上品で神経が細い母親リューボフに束ねられていますが、子供に 死なれた彼女は愛人とパリへ逃避行します。そして、先祖伝来の邸宅に帰って来た途端に、金に飢えた借金取りに大 切な「桜の園」を売却を持ちかけられます。しかし、破産を目前に、他にどんな選択があるでしょう? そして遂に 、彼女の人生で唯一普遍であった、春には必ずピンクの花びらを満開にし、冬空の下では白銀の衣をまといがっし りと立った桜の木と別れを告げることに。不幸は既にもろくなった彼女に追い打ちをかけます。  

 最も美しいのは舞台の大詰め。フィールスがステージ中央でうとうとする中、天からピンクの花びら が舞い降りてきます。白いドレス姿のフィールスはとても嬉しそうに微笑み、他の皆も楽しそうに笑いながら加わ って、花びらをつかんではピンクのシフォンの大きな布の上へ投げ上げます。遂に全ての人々の心が安らかになる のです。過去における喪失も、報われぬ恋の動揺も、将来への恐怖もまったく無くなるのでした。

芸術性 ★★★
娯楽性 ★★★
斬新さ ★★★
癒し度 ★★★


 

(Updated on 6/7/05)

オペラ レビュー

The New York Chamber Opera
Dido and Aeneas by Henry Purcell

Performed at: Symphony Space
Reviewed on 01/24/05
Written by Celeste Sunderland
Translated by Mitsuko Matsumoto

パーセルの古典が今日の「赤と青の国」(アメリカ)に蘇る

 ニューヨーク室内楽オペラは、ヘンリー・パーセルの“ディドーとエネアス”の物語を アメリカの現状になぞらえています。指揮者イラ・シフは、プログラムで、パーセルの魔法 使いや魔女を現在の政界に手を染める企業や宗教の党派にたとえます。指揮者シフと劇作家 フローレイン・ケイによって脚色し直され、ソプラノ歌手サラ・ミラーの品のある淡々とし た声で語られたそのプロローグでは、表面的には大衆に愛される魅力的なリーダーが、裏で はその家族が利益をむさぼり、国の資源が枯渇していく様を描いています。  

シンフォニー・スペースのこじんまりとしたレオナルド・ニモイ・ターリア劇場において、この小さなカンパ ニーがパーセルの古典の簡潔さを味合わせてくれました。優れたミュージシャンで構成されたチェンパー・オーケストラ は、舞台の上で展開するドラマにあわせて、曲調を頻繁に変えていきます。ルーシー・アーナーの指揮によって、エネ アスがディドーを誘惑する優美で陽気な場面から、恋人同士が争う場面の激しい調子へ、そして、ディドーが自滅的な の運命を受けとめる胸の張り裂けるような悲嘆を奏でて、メランコリーな音のクッションを置きながら悲痛な調子へと 移っていきます。  

慈悲深いディドーを演ずるメゾソプラノ歌手エリザベス・バトンは、落ち着いた声で役柄の特徴を見せなが ら歌い上げます。彼女の力強い歌声と誇り高い存在感は、しっかりした女性リーダー像に命を吹き込み、眉間のしわは 人々に対する彼女の気遣いが表れ、深紅のシフォンのガウンからは女らしさと欲情が表れています。いつも笑顔をたた えたカリスマ的なリチャード・バイロンは、あまり見られぬ感じのよいエネアスです。また、ソプラノ歌手のカレン・ フランケンシュタインはディドーの親友でもっとも魅力的な役ベリンダを歌いました。うまい具合に言葉を軽快にリズ ムに乗せながらお茶目な笑顔で観客を魅了するのです。そして、メゾソプラノ歌手のドゥルセ・マンジーニがみすぼら しい男のひもとなった魔法使いを演ずる一方で、カイル・チャーチ・チェスボローとテレンス・ウッドはこぎれいなヘ ルメスのスカーフ、そして、シャネルのバッグをもった魔女たちを演じて、天使のようなカウンターテナーの音域で 滑稽に歌います。  

たった一時間強のパフォーマンスの間に、場面は速いテンポで変わり、ディドーの感情も電気のスイッチを 変えるように変わっていきます。これは物語の展開をいささか混乱させ、それぞれの役があまり発展することもありま せんでした。ディドーの宮廷を創り上げた名も無い歌い手たちは、芳しい花束のような美しい声でした。特に、最後の 場面で女王を失った寂し気な歌い手たちが、女王のいすに白い花びらを儀式的に散らす場面は印象的でした。崇拝、あ やつり、そして、堕落というテーマのもと、古典が3世紀の時を越えて現代の問題との関連性を見出し、よみがえったの でした。

芸術性 ★★★★
娯楽性 ★★★★
斬新さ ★★★
癒し度 ★★


 

(Updated on 9/12/05)

オペラ レビュー

Photo: Carl Skutsch

Cafe Antarsia



Performed at: HERE Arts Center
Reviewed on 11/14/04
Written by Celeste Sunderland
Translated by Rieko Yamanaka

ギリシャのギターとトルコの回転舞踊が神秘的な台本を彩る

 作詞家ルース・マルグラフの惚れ惚れするような快活な歌声を除けば、去る一月 に上演された民謡オペラ“カフェ・アンタルシア”の舞台には物足りなさを感じ ました。民謡オペラと言っても、この作品をオペラと呼ぶのは多少無理がありま すが、それでも演技と舞台演出はかなりのものでした。そこへマルグラフによる 歌詞にのせた美しく詩的な会話、作曲家二コス・ブリスコが元気のよいジプシー ・バンドのために編曲した酔いしれるようなバルカンのリズム、更に派閥争い、 血に飢えた兄弟、危険な誘惑などの豊富な歴史的題材も加わって、この作品が完 成した暁には、ちょっとした傑作になっているかもしれません。  

 舞台は19世紀、オスマン帝国に支配されたクレタ島です。ギリシャは1453年以来オスマントル コに支配されてきましたが、1669年まで彼らの侵攻を免れてきたクレタ島も、革命が続き不安に包まれて います。意気盛んな若き反逆者タナッソス(ラウル・ジュリア)は居酒屋で暴動をけしかけようとします が、キャプテンである兄のミカレスの指導なしでは何もできません。エディ・グーチがミカレスを静かな ストイックさで演じています。彼の瞳が放つ暗い光には、水面下で沸騰する情熱が伺えます。

 パフォーマンスの始めは、不思議な視線が交わされ、混乱したピリピリした空気が満ち、やがて 俳優たちによる素晴らしくも荒々しいアクロバットが連続する場面となります。今回は全三幕のうちの第 一幕のみが上演されたため、内容は作品の背景付け、歴史的関連性の紹介、そして観客を登場人物に馴染 ませることを中心に展開しました。蝋燭や宗教的な聖像に囲まれ、白い衣装に身を包んだ一人の女性が祈 ったり、歌ったり、泣いたりする場面では、忠義と誇りのテーマが追求されました。ミカレスの妻である 彼女の話は、未だ謎に包まれたままです。更にリーマ・ザマン演じるログザラーナも登場します。彼女は トルコの指導者パシャ・センギズの美しい妻で、その筋張った体をくねらせながらミカレスのために踊り 、彼に恋するようですが、その続きは今回は見られませんでした。  

 ギリシャ人とトルコ人の混血である狡猾な反逆者カラジオジスを演じる、威勢のよいフィル・ リステイノを始めとする奇抜なキャスト達、ギリシャの管弦楽器ブズキ二つとアコーディオン一つの軽 快なバンド、神秘的な出会いと神話的イメージを呼び起こす台詞。マルグラフとブリスコがこの意欲作 を完成させれば、観客はちょっとした知的な楽しみが味わえることでしょう。とりあえず第一幕は、無 料サービスのグラッパ一杯も手伝って、食欲をそそる味わいだった、といったところでしょうか。

芸術性 ★★★
娯楽性 ★★★★
斬新さ ★★★★
癒し度 ★★★


 

(Updated on 6/8/05)

フィルム レビュー

 

シルバー・シティ


Reviewed on 9/26/04 by R. Pikser
Translated by Hideki Ohara

要は見る側次第…

  ジョン・セイルズは自分の作品でアメリカの否定的な側面を臆せず紹介してきましたが、常におどけた面もあったものです。アメリカの芸術的な映画作家の中でも最も常に政治性を持つ彼は、私たちの社会を批判するときでも、バカバカしく皮肉っぽく見せて来ました。しかし、どうやら彼は落ち込んでいるようです。

 偉大なハスケル・ウェクスラーにより、控えめに、かつ美しく撮られた“シルバー・シテイー”は、表向きはある西部の州(コロラド)知事のキャンペーンの真っただ中に設定を置いた殺人ミステリーの設定です。実在の人物が架空の登場人物として登場するこの実話めいた映画で追う候補者は、誠実でチャーミングですが、あまり聡明ではないディッキー・ピラガーです。ディッキーは古くからの政治家家系の御曹司。彼の家族は何世代もの付き合いのベクテル家…、おっとベンティーン家とコロラドの資源を略取して、長年その名に相応しい暮らしをしてきたのです。一方で、この地を環境的に手つかずな安息の地で、開発には熟した段階にあると宣伝し続けていました。殺された男は不法滞在のメキシコ人労働者で、死体がディッキーのプロモーション現場の撮影中に発見されたことから、彼と同じく不法労働者以外、誰も彼の死に触れようとしません。

 話の筋はディッキーのマネージャーであるチャック・ラヴェン(不気味な力で人を操るカール・ロウヴだけでなく、ブッシュの側近で腐肉を食べる鳥、といえばお分かりでしょうか?)はこの都合の悪い死を隠すために、建前上の調査を開始します。しかし、たまたまその調査担当者は、ラヴェンによってそのキャリアを抹殺された元ジャーナリスト、ダニー・オブライエン(おそらく亡きゲイリー・ウェブ)でした。ダニーは意気消沈して人生を諦めたと思っていましたが、この一件は彼のうちに怒りを引き起こし、彼は調査を続けながら、私たちが知りたい以上に真相を明るみにしていきます。彼の調査は、公共資源の所有をめぐる巨大ビジネスを取り巻くすべての腐敗を見せつけます。たとえば、見かけ倒しの土地開発、環境破壊、危険かつ毒性を伴う採鉱、不法労働者の取引−最後の不法労働者達は酷使され、そして使い捨ての物や、あたかも有害な採鉱廃棄物のように捨てられます。

  ダニー・ヒューストンはたいへん魅力的に調査官を演じます。彼と彼の元恋人トーラ役のカレン・クロス(これも記者)は非常に自然に役に入っており、感情的な場面における演技はぎこちなく、それが役を演じている感じをいっさい与えません。ダニーの雇い主で、グレース・セイモアを演じるメアリー・ケイ・プレイスはいつものように素晴らしく、その精神の在り方は現実味を増します。リチャード・ドレイフュス演じるラヴェンすら、わずかに腕を動かすだけで心中を表現するなど、まさに真に迫るものがあります(あなたがそんな人達を知っているなら不幸なことですが)。ディッキー・ピラガー役のクリス・クーパーはジョージ・ブッシュのエッセンスを、印象に負けずに、実物以上に良く見せています。その他の俳優も良く、特に脇の悪役などは楽しんで演じています。一方、クリス・クリストファーソン演じるウェス・ベンティーンは至極控えめにコロラド州は彼のものだというとんでもない主張を実に合理的にやってのけ(むろん馬鹿馬鹿しいですが)、それがあまりにも本物らしくて、憎む気にもなりません。

 このシルバー・シテイーにはユーモラスな場面もいくつかありますが、話が進むにつれ、映画のペースが遅く感じられます。というのも、(ダニーは知らなくとも)私たちは既にこの調査の結果を知っているからです。ピラガー家とベンティーン家の関係は、ダニーが自宅の居間の壁に整理するため図に描くほど複雑です。おそらく、この図式はブッシュ家、チェイニー家、ハリバートン社、ベクテル社、タイソン(この名のマイナーな登場人物も現れる)、そしてサウジの王家などの関係を把握するのに役立つでしょう。映画の中で気がめいる事実がどんどん積み重なると、私たちはやりきれなく感じ始めます。私達自身がそんな状況にあるからです。(監督の)セイルズも同様に感じると見え、この映画の重苦しさは、今後の先行きの暗さを反映しています。

 しかし、セイルズは結局、あまりにも悲観的でありすぎます。最後のほうの場面では、ディッキー・ピラガーが気分が悪くなる様な誠実ぶった声で、彼の州の勇敢な人々は正しい事をしていると、陳腐にものたまうと、ダニー・オブライエンの以前の編集長の元に居る新しい若い記者たちが現れます。彼らはベンティーンがシルバー・シテイー開発の目玉にしている、美しい湖の上の鉱山にある有害物廃棄所の調査に赴きます。私たちは、彼らがそれをニュースにする事を知っています。編集長は、彼の非の打ち所の無い調査を報道することが、迷惑がられても、重要な抵抗のもとになることを知っています。そして、役立たずのダニーは、彼に手を差し伸べる人々を混乱に陥れるかのように見えますが、彼は結局正しいことをし、これからもそうであり続けるでしょう。彼はソーラとさえもうまくいくかもしれません。

 最後に現れる哀愁をおびた清楚な湖の遠景は、この映画の最初のシーンでもあるものですが、ひとつ、ふたつ、そしてたくさんの、やがて幾千もの死んだ魚が浮かび上がります。それは、少なくとも「この」特別な高級引退者用住宅地は、「この」特別な毒物廃棄場には建設されない事を物語っています。落ち込みながらも、ジョン・セイルズは一縷の望みを私たちにくれています。彼が起用した俳優達は意気軒昂であって然るべきです。彼もまたそう感じるべきです。例の編集長や、ダニーやソーラのように、セイルズの作品も抵抗するコミュニティーの一部をなしているのです。彼もまた、ダニーのように、自分の落ち込みと戦わなければなりません。私たちは彼が必要なのですから。

芸術性 ★★★★
娯楽性 ★★★★
斬新さ ★★★★
癒し度 ★★★★


(Updated on 9/20/05)

フィルム レビュー

娘道成寺〜蛇炎の恋

Reviewed on 6/10/05 by Eri Misaki,
Reviewedon 6/10/2005 by R. Pikser

Distributed by: Pandora
Publicity Agent: Japan Society

福助の舞に酔う

  ニューヨークのジャパン・ソサエティで6月に特別公開された文化庁支援作品“娘道成寺〜蛇炎の恋” は日本で2004年に公開された映画です。主役は芸能界のアイドル牧瀬里穂と歌舞伎の女形スター中村 福助という異色の組み合わせです。
 モダンダンサー秋月遙香(牧瀬)は、双子の妹で日本舞踊家の詩織(牧瀬の二役)が“娘道成寺”の初舞台の前夜、 舞台衣裳を来て高層ビルの屋上から飛び降り自殺をした理由を探るため、詩織の師匠の村上富太郎(福助)に弟子入りします。 稽古を重ねるうちに、遙香は妹の富太郎への叶わぬ恋を知り、そして遙香自身も富太郎に恋している事に気付きます。しかし、 芸のため男を捨てた富太郎は、詩織同様遙香の愛も受入れず、遙香が苦悶する中、突然引退を表明します。高野山での最後の“ 娘道成寺”を白無垢で踊った富太郎は、そのまま姿を消し、1年後彼の訃報が報道されます。詩織が飛び降りた高層ビルの屋上 に立つ遙香は、初めて富太郎と結ばれたと感じるのでした。
 ストーリーには“京鹿子娘道成寺”と菊池寛の“藤十郎の恋”が織り込まれています。信仰や芸のために恋を拒む男に 対して燃え上がる女の激しい愛は“道成寺”に、そして、そんな女の様子をじっと役者の目で観察する富太郎と、それに絶望し て命を絶つ詩織の心理は“藤十郎の恋”に倣うものです。
  脚本も担当した高山由起子監督は、8割までを見せて残りの2割を観客の想像に任せているため、映画は多くの示唆を残 しています。例えば、富太郎の弟子、秀次の富太郎への感情は恋愛なのか師への敬慕なのか、富太郎の死因は病気なのかそれとも 自殺なのか、最後に屋上に立つ遙香も詩織と同じ運命を辿ったのか、等々。しかし、妹の死に衝撃を受けた遙香がダンスのリハ ーサル中に身体が動かなくなる場面や、遙香と親友の今日子(真矢みき)の関係の描き方には未熟さを感じました。
  この映画には、非常に美しい日本の風景や舞台の映像、厳しい歌舞伎の世界のしきたりを盛り込む等、国際的に有意 義な要素も見られます。金森穣振付けのモダンダンスがダンサー達によってシャープに踊られる場面もありましたが、何とい っても素晴らしかったのが、福助の舞。彼の“娘道成寺”の清姫は、動きそのものが感情で、踊りであると同時に芝居です。 女形姿の美しさもさながら、男性とは思えない滑らかで細やかな所作、素晴らしく安定した動き、豊かな表情、まさに当代一の 舞手の1人と言えるでしょう。福助の踊りを見、それに酔い、更にそれを違う国籍の人々とともに楽しむ事ができたという点で 、高く評価される映画でした。

芸術性 ★★★★
娯楽性 ★★★★★
斬新さ ★★
癒し度 ★★★ Reviewed by Eri Misaki



真実は細部にひそむ

  この映画「娘道成寺」のテーマは二元性です。双子の姉妹の一人は日本舞踊家、もう一方はモダンダンサー、人生と芸術、自然と人為、神聖なものと世俗的なもの、そして生と死というふうに対照的な設定がされています。つまり、私たちがどのように生きるか、そして己の選択によりどのように自らを変えるか、という人生の選択をテーマにしているのです。
 「道成寺」とは、独身の僧侶を愛したために自害し、そして自らを復習の蛇に変える女を題材とした歌舞伎の舞踊演目です。若き女性ダンサー詩織は、歌舞伎が男の領域であるにも拘らず、「道成寺」を習い始めます。稽古が進むのに平行して、詩織が師事し恋に落ちる踊りの師匠は禁欲を誓い、道成寺のヒロイン清姫の本質を見いだすことに己を捧げます。詩織は、おそらく師への愛のために自らの命を絶ちます。双子の妹の死を理解しようと姉の遥香もまた同じ師のもと道成寺を学び始め、そして、彼女もまた妹と同様に師に恋心を抱きますが、最後には死ではなく生きる事を選びます。
 ストーリーとしては充分ではありませんが、高山由紀子監督は過去から現在へ、歌舞伎の舞台から商業的な劇場へ、そしてモダンダンスのリハーサルから歌舞伎の稽古へと、多くの場面でカット・フラッシュバックを挿入することを選びました。物語についていくのはかなり難しいものです。歌舞伎の名優中村福助は、踊りの師匠としても見事に役をこなしていますが、彼が清姫に扮した踊りの場面は目をくぎづけにされ、この映画の見どころです。
 観客には、そもそも詩織がなぜ歌舞伎の世界に入っていったのかすら知らされることはありません。
 高山監督はこの映画の中で多くを試みました。中には成功したものもありますが、彼女は手を広げるあまり、焦点と詳細への注意を犠牲にしてしまいました。それは、細部を完璧に表現することで成り立つダンスを題材とする映画にしては、皮肉な結果だったと言わなければなりません。

芸術性 ★★
娯楽性 ★★★
斬新さ ★★★
癒し度 ★★ Reviewed by R. Pikser, Translated by Hideki Ohara

(Updated on 16/05/2006)

オンライン広告募集中!
お問い合わせ
お申し込み
星の見方
 
素晴らしい!★★★★★
 良かった! ★★★★
 まあまあ  ★★★
 ダメ    ★★
苦しかった   ★
 
 
 
ホームAbout Us意見・感想広告掲載について著作権
本ウェブサイトに掲載の文章・画像写真などを無断で複製することは著作権法により禁じられています。
(c)2006 Dance Project SEQUENCE, Inc. All Rights Reserved.