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ダンス レビュー

Photo: Stephanie Berger

アシュトン祭典
ジョフリー・バレエ

Performed at Metropolitan Opera House
Reviewed on 7/8/04
by Joan Musaro
Translated by Rieko Yamanaka

ジョフリー、アシュトンを祝う

 2004年のアメリカのダンス界では、ジョージ・バランシンとフレデリック・アシュトンの二人の振付の巨匠の生誕100年が祝われました。中でもジョフリー・バレエ団は他のアメリカのバレエ団よりも多くのアシュトン作品をレパートリーに連ね、この偉大な英国人振付家とはより縁が深いことでニューヨークのダンス・ファンに知られています。ならばリンカーン・センター・フェスティバルの一環として開催された二週間のアシュトン記念祝賀公演は、現在シカゴに拠点を置く彼らを再びニューヨークに招聘するには,もってこいのイベントだったと言えるでしょう。彼らの特徴と言えた、若々しく率直で飾り気のない魅力はアシュトン作品によく似合い、そして今もそれは変わりません。

 この夜は三つのはっきり異なったアシュトンのスタイルを網羅していました。季節の挨拶のカードから飛び出したような“レ・パティヌール”のビクトリア調の美しさ、“モノトーンズI&II”の涼しげで簡潔な、まるで別世界の雰囲気、“ウェディング・ブーケ”の奇妙で少し酔いのまわった陰の人間模様。それぞれの作品が、作者が意図したであろう活気、美しさ、そして細部への配慮をもって演じられました。

 “レ・パティヌール”は、かつてないほど可憐でした。金の細工を施した鉄の網と頭上から吊るしたランプに囲まれた氷の池を舞台に、ビロードや毛皮を着た「スケーター」たちがマイアベールの音楽に合わせて滑り、回転し、氷上の一夜を楽しみます。このバレエの中心となっているのは「ブルーボーイ」と呼ばれる、強いテクニックと叙情性を兼ね備えた卓抜なダンサーが要求される役です。大貫真幹(まさよし)は良い場面もいくつか見せましたが、上半身が硬く、滑りやすい氷上でのテクニック捌きには不可欠な、なめらかなコントロールを極めていませんでした。それより遥かに素晴らしかったのは四人の女性ソリストたちでした。二人組のエイプリル・ダリーとエリカ・リネット・エドワーズは見事なフォームと表現で踊り抜き、ディアンヌ・ブラウンとジュリアン・ケプリーはターンのバリエーションに技が光りました。

 “モノトーンズI&II”ではアシュトン特有の控えめな表現が、時間の止まった空間にダンサーたちが浮遊しているかのような、高遠で不思議な世界を創り出しました。この視覚効果は、正確に刻まれる「基本」ステップ、そしてサティの心に染み入るような音楽と動きの表現の不可思議な連携によって生み出されています。“I(第一)”では涼しげなライム色の、“II(第二)”では純白のボディスーツを着て宝石をちりばめた髪飾りを付けた3人のダンサーたちが、きれいに揃った正確な動きで調和と驚きを感じさせてくれました。

 プログラムの三番目、バーナーズ卿の音楽にのせた“ウェディング・ブーケ”は1937年に初演されたものです。クリスチャン・ホルダーがガートルード・スタインによる物語を朗読しましたが、残念ながら音響の悪さがひどく邪魔をしていました。地方での結婚式におけるスタッフや招待客の無作法な振る舞いが、イギリス人独特の観察眼で描かれるこの振付けを、ダンサー達はとても上手に演じていました。これらの登場人物たちはアメリカの観客には珍妙に見えるかもしれませんが、この作品は動きとユーモアを通して人物の心理を素早く描いて見せるアシュトン最大の才能(この場合、犬も含めて!)の典型的な例だと言えるでしょう。


 

芸術性 ★★
娯楽性 ★★
斬新さ ★★★
癒し度 ★★★


 

(Updated on 1/12/05)

ダンス レビュー

 

エイコ+コマ
ツリー・ソング

Performed at The Joyce Theater
Reviewed on 5/29/04
by R. Pikser
Translated by Rieko Yamanaka

土より蘇る

 メモリアル・デーに行われたエイコ+コマの公演は、セント・マークス教会の墓地に戻り、今回の作品“ツリー・ソング”は、昨年同じ場所で披露された、同じく死と悼みをテーマに扱った“オファリング(手向け)”の続編ともいうべきものでした。今年の彼らは、“オファリング”よりも更に原始的な存在になっていました。前半では、なめくじやみみずのように、足よりも胴体を使い、盲目的に地面を這って墓場へと向かいます。腕を使ったのは、コマが枯れた葉や花をエイコに捧げ、エイコが彼を抱きしめることで応えた瞬間が最初でした。“オファリング”同様に彼らは互いに接触することで力を得、自分自身を乗り越える原動力にしています。また、この作品は詩人で歌手のシャロン・デニス・ワイエスと作曲家兼ピアニストのジョージア・ワイエスとのコラボレーションで、振付家二人が動きの原理を模索しているように、時折重なる彼女たちの伴奏もまた、様々な音を穏やかに模索しているように感じました。

 クライマックスでもある作品の最後では、二人のダンサーは立ち上がり、会場に植えられている生木の一本に、力を合わせて枯葉としおれた花を捧げます。その木を抱きしめて一体になろうとしながら、彼らは、私たち人間は互いに力を合わせることもできるが、全ての恩恵の源は大自然にあり、死は生の一部であるということを気付かせてくれたのかもしれません。


 

芸術性 ★★★★★
娯楽性 ★★★★
斬新さ ★★★★
癒し度 ★★★★


 

(Updated on 1/12/05)

ダンス レビュー

Photo: Gaby Herbstein

ボッカタンゴ

Performed at The Joyce Theater
Reviewed on 7/28/04
by Celeste Sunderland
Translated by Rieko Yamanaka

トップレス・タンゴの刺激

 ブエノスアイレスの売春宿からパリのキャバレー、 そしてニューヨークはジョイス劇場の粋でモダンな舞台まで、タンゴはその暗い、そして華やかな魅惑で、どんな苦い心も鼓 舞させてきました。去る7月に公演された「ボッカ・タンゴ」では、フリオ・ボッカとバレエ・アルゼンチーノ、8人編成のオ ーケストラ、そして2人のシンガーが観客を夢中にさせました。

  アナ・マリア・ステケルマンが振付たこの日の公演は、バラエティー・ショーのような感さえありました。サッカー試合で熱狂する観戦客や荘厳な遺跡の建物の映像が映し出され、燕尾服を着たギジェルモ・フェルナンデスが、まるでラス・べガスのナイト・クラブのエンターテイナーのように“愛しのブエノスアイレス”を艶やかに歌いながら登場すると、辺りはアルゼンチン一色に染まります。

 この夜、真っ先に“インヴィエルノ・ポルテーノ”で、その優雅な肉体でどきりとさせたのはフリオ・ボッカでした。アルゼンチン出身のボッカは、1986年からアメリカン・バレエ・シアターのプリンシパルとして活躍し、1990年にアルゼンチン・バレエ団を創立しています。テーブルに一人、彼はゆっくりと究極のポーズを次々と非常に正確な動きで披露し、観客はこの絶妙な1人だけのシーンを息を呑んで見守ります。その6曲後、ビビアナ・ビヒルが“ペダチト・デ・チェロ(天国のかけら)”を歌う中、ボッカとセシリア・フィガレドがモダンバレエとタンゴのパ・ド・ドゥを楽しそうに踊り、会場は酔ったような陽気に包まれました。このペアはその後でも登場しますが、今度は危険なまでのセクシーさが無邪気さにとって代わりました。2人が荒々しさと優しさを交えて踊るうちに、フィガレドのスーツからは黒いブラジャーがのぞき、すぐにスーツが床に落ちて、ストッキングと下着が露わになります。しかし長い髪を振り乱したこの役柄には、安っぽくてけばけばしい印象を受けました。フィガレドは“ロマンス・デル・ディアボロ(悪魔の恋)”ではトップレスでした。このエロティック なダンスに、フィガレドとボッカは恍惚感を醸し出しましたが、彼女が半裸であることは不適切に見えました。

 小柄で快活なフィガレドと並ぶと、ロザンナ・ぺレズのしなやかな肢体はとてもエレガントに見えました。2人はハーナン・ピクィンと共に、可愛らしく演劇的な“センチェロ”で、女の子らしいささやきや巧み戯れを取り混ぜて踊りました。この日の出演者には男性ダンサーが7人おり、マッチョな“ネグラッチャ”や、“エル・オピオ”に合わせたベンジャミン・パラダのこざっぱりしたチャップリン風の踊りなど、男性ばかりの作品も多数披露されました。ビヒルが歌いボッカが踊った“バラダ・パラ・ウン・ロコ”では歌とダンスの素晴らしい絡みが見られました。ボッカはビヒルの声を動きでとらえ、彼女の言葉を肉体で表現しました。この夜の公演は“エル・フィルレーテ”でクライマックスを迎え、バンドはステージ上で激しい演奏を繰り広げ、2人のシンガーは情熱たっぷりに歌い、8人のダンサーたちがお祭りムードのタンゴのフィナーレを作り上げました。


 

芸術性 ★★★★
娯楽性 ★★★
斬新さ ★★★
癒し度 ★★


 

(Updated on 1/12/05)

ダンス レビュー

 

ポール・テイラー・
ダンスカンパニー


Performed at City Center
Reviewed on 3/12/04
by Tamsin Nutter
Translated by Rieko Yamanaka

丈夫で長持ち

 ポール・テイラーの作品をそれほど好きでないという人はいても、彼が名工であることを認めない人はいないでしょう。2004年3月に彼のカンパニーがシティ・センターで公演した際、私はその事実に驚愕せずにはいられませんでした。その日のプログラム、“呪文”“レ・グラン・パぺティエ”“マーキュリック・タイディング”は、テイラーの傑作作品の魅力である見事な抽象作品でも、開いた口が塞がらないような曲解が施されたものでもありませんでしたが、プログラムのほとんどは、まるで一級品の木工家具のように調和し、細部まで気を配って創られていたのです。

 1975年が初演の“呪文”は、原始的儀式というグラハムを思わせるテーマで、時代を感じさせます。生け贄や部族紛争、そして性的ニュアンスを含んだ儀式の苦悩などのイメージが交錯し、典型的なテーラーの動きによって表現されていきます。しかし構成はしっかりしており、マイケル・トゥルスノヴェックのソロを、舞台後方と前方を逆方向に止めど無く流れる二列のダンサーたちが引き立てるなど、印象的なシーンもありました。ダンサーたちは力強く自信に満ちており、テイラーの見栄えのいい構成に相応しく、魚の群れのように優雅に効率よくフォーメーションを次々と変えていきます。

 今回が世界初演の“ル・グラン・パぺティエ”は詩的にデフォルメされたとはいえ、珍しくも時事問題への挑戦と受け取りました。テイラー版“ペトルーシュカ”(ストラヴィンスキーの音楽がピアノーラで伴奏されています)といったこの作品は、権力のもたらす堕落を描いたもので、ひねりの効いた興味深いエンディングは私に、ハイチ軍を解隊することによって自ら独裁者への復活を不可能にした(ともいえる)アリスティード大統領に対するクーデーターを思わせました。作品自体はごちゃごちゃしていながら、あまりにもストーリーそのままでしたが(この場合は、ストーリーが構成を上回ったと言うべきでしょうか)、素晴らしい踊りの場面も見られました。サント・ロカストのおかげで美しい視覚効果のある作品ですが、息を呑むほど美しい舞台セットに対し、衣装は悪趣味なお菓子の国のような宝石色のサテンでした。

 “マーキュリック・タイディング”は抽象的でバレエ色の濃い作品で,ダンサー達は良く演じていますが、モダンダンサーである彼らはこれほどまでプチ・アレグロに対応する技術を持ち合わせていません。(ちなみにこの作品も“呪文”同様、テイラーの驚くほど悪趣味な衣装の好みによって台無しにされていました。)最終的に作品を持ち上げているのは小さな物語が一つ一つ継ぎ目なく繋がっていくという構成で、動きそのものは至って冴えないものでした。それでもひとつ、明るく陽気なセクションで、舞台左右の袖からそれぞれからダンサーたちがニコッと笑い手を上げて互いに挨拶する光景は愉快でした。

 このダンスの名工の手から生み出されるものの中には、「素晴らしい」はおろか「優良」とすら評せないものもあります。しかし彼の作品は、年月とともに欠けたり、ひび割れたり、裂け目が入ってしまうことはありません。テイラー作品は長持ちするようにしっかり創られているのです。


 

芸術性 ★★★
娯楽性 ★★★
斬新さ ★★★
癒し度 ★★★


 

(Updated on 1/12/05)

ダンス レビュー

Photo: Max Vadukul

アーミテージ・ゴーン!
ダンス

“時間は木にこだます
なたの音”


Performed at Joyce Theater
Reviewed on 9/23/04
by Tamsin Nutter
Translated by Rieko Yamanaka

パンクバレリーナの気まぐれな詩

 キャロル・アーミテージの経歴にはバランシンとカニングハムとの活動に加え、80年代にナイトクラブでロックにトゥシューズで踊った「パンク・バレリーナ」というおまけも含まれます。今年3月にジョイス・シアターで初演された“時間は木にこだますなたの音”(フィリップ・ラーキンの詩から引用された題名)に見られるように、アーミテージは今も既存のジャンルに一捻り加えることに焦点を当てているようです。

 アーティスト、デイビット・サルはぎらぎらした銀のロープでできた幕で舞台の三つの面を囲み、その向こうの暗闇には都会の夜景のような小さな赤い光が灯り、ダンサー達の金、銀、銅の色をしたレオタードに反射します。作品は美しいメグミ・エダの、もの悲しくも力強いソロで始まり、そして最後まで彼女はゆらゆらと漂いながら、作品のテーマであるかの様に踊ります。彼女の周りでは、カップル達がペアになり、離れ、そしてまたペアになります。特筆すべきは力強いダンサーのテレサ・ルース・ハワードで、ウイリアム・アイザックに激しく頭を揺すぶられ、バルトックの音楽の不揃いなビートに彼女のラインが身悶えする様は印象的です。時にアーミテージは繊細なジェスチャーや、野暮ったくゆがんでいるけれどももっともらしい動きを取り入れていますが、これらも無意味なバレエの技や、フォーサイス風に体を痙攣させたりうねらせたりする動きに飲み込まれてしまいます。空間的にもこのダンスは繰り返しが多く、“時間…”は首尾一貫した論理を持たないものでした。

 作品の最後はクラブ・ダンサー、ベンデリオン、ヴォーガーズ・メッカ、そしてアヴィアンスと、バーラタ・ナーティヤム(インドの古典舞踊)のダンサー、シャーミラ・デサイの登場と共に奇妙に展開します。最初の三人はものすごい速さで腕と手首をねじ回す一方で、デサイはヨガの様なポーズをとり、他のダンサー達は彼らの存在とは関係なく動きます。ゲストアーティスト達は全く別の作品の中にいるかのようであり、これらのジャンルをミックスすることの意味は、私には理解できませんでした。

 アーミテージは、時折複雑な間違いを犯しています。例えばレオ・アーポンが舞台を横切って走る際に、銀の幕を手でゆらすと、風鈴の音がちりんと鳴って、音楽から観客の意識を一瞬反らせてしまったりします。(とてもよく似た幕や動きが使われている、アンナ・テレサ・デ・キールスマイケルの秀作“レイン”をアーミテージは観たことがあるでしょうか?)しかし、彼女は純粋に美しい瞬間も創り出しています。例えば、ダンサーとゲスト・アーティスト達のめちゃくちゃな混乱が、エダの登場によって消える瞬間、照明が落とされ、幕の向こうの暗闇に赤い光の海がさっと広がります。無限と神秘に抱く驚異の念。これがアーミテージが追求していたものなのでしょうか? エダは星空に向かって手を差し伸べ、それは息をのむ美しさでした。残りのシーンにもこのような詩的な美しさがあったら、と思わずにはいられません。


 

芸術性 ★★
娯楽性 ★★
斬新さ ★★★
癒し度 ★★★


 

(Updated on 1/12/05)

ダンス レビュー

エイミー・トロンペッター/
デーヴィッド・ニューマン

“幸福の王子”

Reviewed on 9/23/04
by Tamsin Nutter
Translated by Rieko Yamanaka

愛と善行の人形劇

 エイミー・トロンペッターとデイヴィッド・ニューマンの“幸福の王子”はオスカー・ワイルドの美しい寓話をダンスと人形劇で再現するという素晴らしい企画に聞こえました。しかし残念ながら、どたばた喜劇風の解釈とストーリーの重要な部分の省略によって原作が不当に扱われた だけでなく、 二人の作家の趣旨の大半が、粗雑なプロダクションによって台無しにされていました。

 すべてのワイルド童話と同じく、“幸福の王子”は悲痛で、大人向きで、残酷なユーモアのある物語です。生前は裕福さと地位によって守られていた幸福の王子ですが、寒々とした自分の街を見下ろす金の像となった今では、貧困と惨めさばかりが目に入り、貧しい人達を助ける手伝いをしてくれるよう、思いやり薄い小さなツバメを説得します。ツバメはエジプ トへ渡る日を延ばしながらも、 善い行いをするため、そして幸福の王子への愛のため、街に残るのでした。

 ナレーターで幸福の王子役のカレン・カンデルは素晴らしい出来でした。彼女の柔軟な声はワイルドの言葉から音楽を紡ぎ、うめくような金属質の低音は塑像の声を表現するのにピッタリです。生演奏されたダニエル・バーニッジの鈴を振る様な音楽も素敵なものでした。しかしアメリカの脚色家というのはいつになったら、イギリス人が得意とするドライな言葉 中心のユーモアにオチは要らないことに気づくのでしょう。ツバメ役の中国歌劇俳優グオ・イーはまったくのミスキャストでした。 彼のどたばた喜劇風の大袈裟な動き、目玉のよく動く豊かな顔の表情、そして曲芸は、別のショーでなら素晴らしかったでしょうが、ここでは酷く場違いでした。イーはこの役を愛すべき、しかし煮え切らない怠け者として演じています。しかしワイルドの書いたツバメは、権力に服従したからではなく、やがて心を開き新しい視点で世界を見つめるようになった からこそ、街に残ったのです。

 演出・デザインを手掛けたトロンペッターの創作のいくつかは、インスピレーションを得て作られたものでした。貧乏人たちを表す顔のない操り人形たちはマティスの絵のようですが、その最後の変化は見ごたえのあるものです。ツバメによるエジプトの熱狂的な描写(ワイルドの最も同性愛的な散文)は光と色の洪水で表現されます。王子と町の人々がいる、擦 り切れた、暗く
冷たい街とは対照的に、鮮やかな彩りの旗がいかにもエジプトらしい風景とともに舞台を覆います。 しかしながら音で遊んだり、登場人物を人間と人形の両方で表現するなど、トロンペッターのもっとも興味深いコンセプトのいくつかは、技術的な欠陥で失敗に終わっていました。練習不足と思われる場面も多く見られ、場面の流れは時に不自然、或いは長すぎるように感じました。振付演出を担当したニューマンにもその責任はあり、動きと演技と人形劇は、結 局噛み合わないままでした。

 冒頭で、カンダーが脱皮したさなぎのようにコートを人形師たちの手にあずけ、殻になったコートはいたずらな風に吹かれたかのように、ひらひらと舞い上がります。しかしこのように美しい、動きと人形師と小道具の合体は、残念ながらそれ以降ほとんど見られませんでした。


 

芸術性 ★★
娯楽性 ★★
斬新さ ★★★
癒し度 ★★★


 

(Updated on 12/24/04)

ダンス レビュー

アメリカン・バレエ・
シアター

コッペリア

Reviewed on 6/25/04
by Celeste Sunderland
Translated by Rieko Yamanaka

大騒ぎと心痛…、すべては人形のために

 等身大の人形たち、元気いっぱいの恋人たち、狂った博士、そして持参金…。“コッペリア”は、その初演以来134年たった今も、愉快なバレエとしての真髄を保ち続けています。アメリカン・バレエ・シアターの6月25日の公演では、シオマラ・レイエスとハーマン・コルネホが主役を務めました。この颯爽たるカップルは茶目っ気たっぷりに踊りました。

 このバレエは、ヨーロッパの童話の中の町を背景に、スワニルダとフランツの恋を描きます。しかしフランツはコッペリウス博士の「娘」と思い込んでいる美しいぜんまい仕掛けの人形コッペリアに夢中です。市長が、結婚する者全員に持参金をプレゼントすると発表し、フランツはスワニルダへの愛を確かめなくてはなりません。コルネホはそれほど痛切な演技は見せなかったものの、力強さとセンスの良さでフランツ役を演じ切りました。彼はまだ若いダンサーですから、いつの日か、この役をしっかり自分のものにすることでしょう。

 一方レイエスは素晴らしいスワニルダを見せてくれました。否応無しにチャーミング、それでいて威厳があり尊大な彼女は、すばしっこい軽やかさとコケティッシュな身のこなしで、ステージの上を自在に踊ります。恋人に冷たい態度をとるシーンでも、瞬時に高慢なスワニルダになってみせました。

 すでに充分陽気なこの舞台に、ユーモア溢れる場面が更なる笑いを添えます。コッペリウス博士の仕事場の鍵を見つけたスワニルダは、手と手をつないで鎖のような列になった9人の女友達を連れ、忍び足でドアをくぐります。この好奇心旺盛な一群は中に入ると様々な国の人形を見つけてはしゃぎますが、カーテンの後ろに座り上品に本など読んでいるコッペリアを発見した途端、怖くなって立ちすくみます。少女達は顔を覆い隠し、しなやかな脚が震えます。

 (鍵を無い事に気付いて)大慌てで博士(ヴィクター・バービー)が帰って来た場面では、スワニルダがコッペリアの洋服を身につけ、彼女になりすまします。まんまと騙されたコッペリウス博士は、コッペリアのこわばった粗削りな動きが優雅で人間らしいものに変ったのは、自分の魔法の呪文のおかげだと思い込みます。このシーンでのレイエスは圧巻で、スペイン風の扇を手にしてあり余る情熱をぶつけたり、上等の飾帯を巻きつけてはしゃいで、いたずらっ子のように仕事場を滅茶苦茶にします。

 お祭りのダンスが展開するドラマにちりばめられています。町の広場で踊る伝統衣装を纏ったカップルたちには、民族色の濃い振付けが生き生きとした調子をつけていました。途中で子供のバレリーナの集団が躍り出して、場面を新鮮な天真爛漫さで包み込みました。二人の擬人的登場人物、曙(ステラ・アブレラ)と祈り(ヴェロニカ・パート)は優雅な神秘性を加えていました。最後は全員総出の贅沢なフィナーレで、はためくオーガンジーとスパンコールの混ぜ合わせに、カラフルな衣装が溶け込んでいました。

 

芸術性 ★★★★★
娯楽性 ★★★★★
斬新さ ★★★★
癒し度 ★★★


 

(Updated on 12/8/04)

ダンス レビュー

ファウン・ダンス・
トゥループ

フランス作曲家たちへのオマージュ

Reviewed on June 20, 2004
by Celeste Sunderland
Translated by Rieko Yamanaka

フランス人の調べに舞う

 ニューヨークに拠点をおく日本人のバレエ・カンパニー、ファウン・ダンス・トゥループは、その名をクロード・ドビュッシーの“牧神(ファウン)の午後”からとっていますが、これは作曲者ドビュッシーへの賛辞というよりも、ヴァスラフ・二ジンスキーの振付を1940年代にバレエ・ルシュ(ロシア・バレエ団)で踊った彼らの恩師、ウラジミール・ドコウドヴスキーへの忠誠を示すものです。今年六月、彼らは“フランス作曲家たちへのオマージュ”と題した三作品のプログラムで、フランスへの敬意を表しました。

 創立者の一人、前田実穂が振付けた“ボレロ”(音楽モーリス・ラヴェル)は野生的なギリシャ調の衣装と、出会い、そして敬慕というテーマを取り混ぜていました。儀式的な感じが“春の祭典”を思わせるこの作品では、時折ダンサーたちが無音の中で長い腕をくねらせ、波打つ海を真似る場面が見られました。そこへ主役のカップルが登場すると、場の空気が引き締まりました。奈良岡典子は魅惑的な鶴のような跳躍でステージに現れ、ジャヴィエル・ズールは美しい戦士の力強さを発していました。

 続く“瀕死の白鳥”(音楽カミーユ・サン・サーンス)は、あまりに突然な出だしと、二つの長い、活き活きとした作品に挟まれるという不適切な配置によって、その重要性が薄れてしまいそうでしたが、かろうじてその威厳を保ちました。アンナ・パヴロワが同作品を初演してから92年後の1999年、前田とドコウドヴスキーは協力してミハイル・フォーキンの原形の振付を再演しました。そして今回、前田は再びこの作品を披露し、今は亡き師に捧げたのです。もう届かぬ情熱を込め、彼女はこの悲痛な振付を踊り抜きました。伝統的な白鳥の衣装をまとった彼女の細長い胴体と、どこまでも伸びそうなか細い手足が、傷ついた肉体から立ち直ろうともがき苦しみ、ついには力尽きる白鳥の必死の羽ばたきを描いていました。最後にお辞儀をした彼女は、見るからに感極まっていました。

 同じく「死」を扱った前田演出の“カルメン"(音楽ジョルジュ・ビゼー)−−あの禁断の愛と悲劇的な嫉妬を描いた誘惑の物語−−は、定番のひだ飾りのついたドレスとスペイン風の振付で活気づいた作品です。ダンサーたちの演技も良く、フラメンコのポーズの合間に、楽しげな、または怪しむような視線をちらっと投げかけていました。可憐でコケティッシュな奈良岡はカルメン役を美しく踊りましたが、彼女の整った正確なテクニックは、男を惑わす冷淡な魔性の女という設定にはいささか無邪気すぎるように見えました。それでも彼女はドン・ホセ(ズール)と闘牛士エスカミーリョ(ヴェンティ・ペトロフ)を虜にしていました。この二人は共にパワフルなダンサーで、ペトロフはカルメンの駆け引きに一喜一憂し、ズールは恋人カルメンの脇腹に剣を刺した後、明らかに動揺する様が見て取れました。

 今回のプログラムにはドビュッシーの作品は含まれていませんでしたが、ファウン・ダンス・トゥループは改めてフランス音楽の魅力を思い出させてくれました。次は、名前の由来である「牧神の午後」の上演が期待されます。

 

芸術性 ★★★★
娯楽性 ★★★★
斬新さ ★★★
癒し度 ★★★


 

(Updated on 10/15/04)

ダンス レビュー

 

 

アメリカン・バレエ・
シアター


Performed at The Metropolitan Opera House
Reviewed on 5/12/04
by R. Pikser
Translated by Akiko Nishijima

心と魂

 アメリカン・バレエ・シアターのダンサーは大変な努力家です。彼らは高いテクニックを持ち、演技は正確です。しかし多少の例外こそあれ、彼らの踊りはどういうわけか情熱に欠け、限界まで高められた肉体に頭脳がついていっていないような印象を残します。それは彼らが踊る作品が、息をつまらせるほど濃厚な性的描写を持つ“火の柱”であるにせよ、理知的ユーモアを含んだイリ・キリアンの作品にせよ、ジョージ・ハリソンの優しくも風刺的な歌「僕のギターが優しく泣く間に」にのせたアン・ラインキングの勇ましいアパッチダンスであるにせよ、同じことが言えます。注目すべき例外は、同じハリソンへの合作追悼作品“ウイズイン・ユー、ウイズアウト・ユー”の中で、ナタリー・ワイヤーがタイトル曲にのせて振り付けをしたシーンでのマルセロ・ゴメスでした。肉体的・技術的要素を容赦無く追求しつつも単調な振付であったにも関わらず、ゴメスは明らかに、歌に込められた内面の探求というテーマと自身の動きをしっかり結び付けようとしていました。

 “火の柱”では、一番下の妹役のシオマラ・レイエスがアンソニー・チューダーの挑発的な振り付けを上手く使って無邪気にも軽薄な役柄を作り上げ、その一方でアンヘル・コレ―ラが、向かいの家に住むセクシーな若者を演じました。最年長の娘役、乙女役、そして友人役は、いずれにせよ大した事ない役周りですが、ヘーガル役のアマンダ・マッケロウは、振付のもつ爆発寸前の緊張感を活かしきれていませんでした。その他でダンサー達が心から楽しんでいると感じられたのは、“ウイズイン・ユー、ウイズアウト・ユー”のデイビット・パーソンズ振付けのフィナーレで、舞台中をはしゃぐように跳ね回っている場面のみでした。

 アメリカン・バレエ・シアターのダンサー達は技術的には強く、あらゆる動きやスタイルをこなすことができます。しかし水曜の夜に演出した彼らの殆どは、芸術化がただ踊るだけでなく、いろいろな役を自分のものに体現するのに必要な、カメレオンのような、わくわくさせる資質が発達していないようでした。

 

芸術性 ★★★
娯楽性 ★★★
斬新さ ★★
癒し度 ★★


 

(Updated on 9/22/04)

ダンス レビュー
Wind From the East

「ダンス・エキシビジョン 2004」

Performed at at the New National Theater
Reviewed on 9/15/04
by Yukihiko Yoshida
Translated by Rieko Yamanaka

オーストラリアと日本のコンテンポラリー・ダンス

 オーストラリアのダンスは優れた作家が多いですが、これまであまり日本に紹介されてきませんでした。粉川哲夫(文明批評家・東京ゲーテ記念館館長)が80年代に現代オーストラリア文化を日本に紹介したように、サブカルチャーを育む土壌は豊かで、70年代以来演劇では優れたグループが活躍しています。アジア・環太平洋をカヴァ─するWorld Dance Allianceアジア・環太平洋の中でもオーストラリアは大きな役割を担っています。日本でのこの国のダンスに対するさらなる認知は重要です。

 リー・ウォーレン & ダンサーズはそんなオーストラリアを代表するカンパニーの1つです。「Divining」ではピアニストがスクリャービンの曲を奏で、踊り手達が感情豊かに踊ります。ダンサーが空間性のある構成とダイナミックで伸びやかなムーブメントを踊ります。「Swerve」では対照的に素朴なオーストラリアの日常生活を感じさせます。踊り手達はリズムを刻みながら、ポップダンスやダンサー同志のジャムを感じさせる動きを繰り広げます。車のホイルやバケツを叩く姿は素朴で踊り手の日常生活から生まれたような空気を感じさせます。

 日本のコンテンポラリー・ダンスは日本の現在を多様に描きました。浅野つかさパーフェクトモダン「Lotus〜花の咲く時季〜」はオリエンタルで幻想的な情景です。蓮の花を手に持った踊り手たちは作家のイマジネーションを描きました。中でも塙琴のしなやかな動きは一際映えました。川野眞子「月に歌うクジラ」は、宮沢賢治の文学世界からクジラの歌う世界へ、とまるで現代文学の様な世界の作品です。作家のアイデアを反映した日本の最先端の技術も見逃せません。森山開次の「OKINA」は伝統と現代の相互から日本の肉体を普遍的に描き出しました。能の踊り手の静寂さと対比的に宙を動く森山の肉体の対比は緊張感が漲ります。内田香Roussewalz「冷めないうちにめしあがれ」では現代日本を生きる女性達のエスプリが光りました。いずれもテクニシャンの踊り手達は成熟した女の世界を描く事で、観客を穏やかに挑発します。渕沢寛子と所夏海の洗練された世界は情景を引き立てました。

 オーストラリアで研究を重ねた岩渕功一(文化研究、“Recentering Globalization: Popular culture and Japanese Transnationalism”他)が指摘をする様に、アジアの発展の中で自らを西欧の一部と思いがちな日本の位地は大きく変化しつつあります。日本のダンスをアジア・環太平洋へ紹介する時、その切口を模索する大切さ感じた公演でした。

 

芸術性 ★★★★★
娯楽性 ★★★★★
斬新さ ★★★★
癒し度 ★★★★


 

(Updated on 1/12/05)

シアター レビュー

Photo: Jonathan Slaff

シアター・フォア・ニュー・シティ

“ノシッグのおとぼけ”



Performed at Theater for the New City
Reviewed on 5/8/04
by R. Pikser

マインドゲーム

 アルフレッド・ノシグ(1864-1943)はその幅広い活動範囲の中でもとりわけ、作家、彫刻
家、 文芸評論家、哲学者、活発なシオン主義者(ユダヤ国家主義者)、そして社会主義者でし
た。 彼はワルシャワゲットーの暴動の前日、恐らくはナチスのスパイと思われるレジスタンス運動 のリーダーたちによって射殺されています。事件に関する情報はこの芝居からも寄せ集める事 ができますが、舞台の上よりも、事件の資料の方がよほど多くのものが得られます。この悪夢 のような茶番劇では、幕が開くや否や、誰とも分からぬ複数の襲撃者によってノシグが何度も 銃で撃たれる場面が執拗に繰り返されます。また、「ノシグ」「ノッシング」「ナッシング」 と、言語や方言を駆使した駄洒落が何度も繰り返されます。これこそがこの作品のテーマなの です。つまり、断片的な夢として描いたり、ノシグの孫息子が祖父は本当はどんな人だったの かを探求するように、結局答えは自分達の心の中にあるという観念に代表されるニヒリズムな のです。
 
 作者のラザーリ・シーモア・シムクスは私たちに彼の潜在意識にあるものを見せてはいても、 その中には、或いはノシグの心の中に連れて行こうとはしません。通常、夢に基づいた芝居は 違う現実を作り出すものです。この作品では断片的な出来事と表面上の出来事が繰り返される に過ぎません。三人の役者たちはもの凄いスピードで喋り、しかもそのうち二人はイェディッ シュ語もしくはポーランド語の強いなまりで話して、観客は理解できません。あたかもせりふ は大事ではないと言わんばかりです。精神科医役でさえ(或は精神科医だからこそ?)、すべ ては無常であり、私たちには出来事や考えの理解はおろか、気付く事もできないという考え方 をしているのです。では、この作品は私たちに何を伝えようとしているのでしょう? ニヒリ ズムであり、その他の何ものでもありません。
 
 演出家のクリスタル・フィールドは、その悪夢の世界を出現させるために、文楽人形術、宙返り、 竹馬歩行、そしてダンスと、ありとあらゆる演劇技法を使っています。もし、それが分かりにく いと言うならば、彼女が敢て分かり易くしなかったか、分かり易くできなかったのでしょ
う。俳 優たちは皆良い演技をしていました。が、彼らの努力にも拘らず、この作品は私の心を打つこと はありませんでした。



芸術性 ★★
娯楽性 ★★
斬新さ ★★★
癒し度 ★


(Updated on 1/12/05)

シアター レビュー

ラルフ・リー
メッタウィー・リバー劇団

カラジオジス




Reviewed on September 12, 2004
by R. Pikser
Translated by Rieko Yamanaka

「もっと中身を面白く」

 人形作家、人形師、舞台美術デザイナー、そしてセット製作者であるラルフ・リーは、何年にも渡って世界中の伝統的な人形劇や物語に基づいたショーをアメリカ北東部各地で公演してきました。彼の今年の物語はギリシャとトルコの伝統的な影絵人形劇からきていますが、一人の人形師がすべての人形を操るのではなく、メッタウィー・リバー劇団の俳優達が、素敵な大きなお面をかぶったり、巨大な頭を腹にとりつけたり、竜に見せかけた乳母車で互いを攻撃したりします。その創造力の豊かさにはまさに驚くべきものがあります。

 カラジオジス役のエヴァン・ゼスは、イタリア仮面喜劇の道化者パンチのような鼻と、グラウチョ・マルクスとダニー・ケイから盗んだかのような動作が絶妙に溶け合って、巧みに他人を騙して生き延びる貧しい男の役柄にうまく演じています。ペテン師のキャラクターは昔話を知る人にはお馴染みですが、この場合、物語の起源が国際的なところが更に面白味を加えています。貪欲なカラジオジスとそのお腹を空かせた子供たちと共に、イスラム教徒、キリスト教徒、羊飼い、大臣、お姫様、そしてアレキサンダー大王も登場し、誰かがある話の中で死んだとしても次の話では戻ってきたりします。デイヴ・ハンサカーによる脚本は、ディズニー作品ならウィットとしてまかり通る、気に障る様な気取り過ぎかつ時代錯誤な言葉づかいにふけるのではなく、現代の世情と言語を取り入れて、話に面白さと今日的意義をもたせています。

 残念なことに、この溢れるような独創性は、俳優たちの演技となるとパワーダウンしてしまいます。ゼスと巨大な頭のキリティス役のキム・ガンビーノ以外は誰も、動作や人物を表現する道具としての衣装の可能性を模索してはいない様でした。ゼスは大騒ぎの火付け役であるべきところが、全編を通して彼の独壇場になってしまいました。最終的に、これらの責任は演出も務めたリーにあります。おそらく、マスクや人形が出来上がれば仕事は終わり、演技はなるようになると思ったのでしょう。しかし俳優は操り人形ではありません。彼ら一人一人がしかるべき仕事をして、舞台を作り上げなければならないのです。確かに公演は楽しめましたが、決して見事とは言えないものでした。問題は、素晴らしいものが出来上がる可能性が充分にあったということです。こんなに期待させられなければ、がっかりもしなかったでしょう。私たち観客の欲求は、そそられることはあっても、満たされることはありませんでした。



芸術性 ★★★
娯楽性 ★★★
斬新さ ★★★★
癒し度 ★★★


(Updated on 10/18/04)

シアター レビュー

“ノーマル・ハート”


Performed at The Public Theater
Reviewed on April 28, 2004
by Joan Musaro
Translated by Eri Misaki

悲劇、引き続き

 ラリー・クレイマーの騒々しくも情熱的な作品“ノーマルハート”が1985年に初演された時は革新的な劇でした。政治運動家でもあるこの作家の、ニューヨーク市の公共事業機関への迫りつつあるエイズの脅威の警告と、その対策の公的援助を求める努力は良く知られています。私はこの芝居のオリジナルを、現在上演されているこの同じ劇場で見ましたが、演劇作品としての力強さ、作品から伝わるメッセージの現実性と脅威は、19年前と変わらぬ影響力があります。ラストシーンは近年の同性愛者間の結婚の合法化の問題を取り入れて現代化していますが、今だに観客をしんとさせ、涙を誘うものがあります。

 この物語は、著名な作家ネッド・ウィークスと彼の仲間が、友人達が次々と恐ろしい病気に侵されるなか、ゆっくりとエイズの恐怖に気づき、戦う様を描いたものです。彼らの知人である医者も若いゲイの患者達が同じ症状を発し、やがて死んでいく事に不安をつのらせていました。彼女は自分の発見を衛生管理局、投資家、そして彼女の若い患者達に伝えますが、誰も耳を貸そうとはしません。性的接触が感染のルートではないかと懸念して禁欲を呼びかける彼女を、彼らは無視したのです。

 登場人物達の感情的なせりふには、秘められた恐怖感からけんか腰の支持、そして苦労してやっと手に入れた開放された性生活が、実は彼らにとって命取りになっているかもしれないということを、彼ら自身が認め兼ねているという、同性愛者運動の歴史が込められています。しかしながらこの作品の今日にも通じるパワーは、何百万もの人々がなおウイルスに感染しているという現実だけでなく、原作者が人の絆、社会、人間関係、そして性的し好に関係なく誰もが求める愛の追求を考察しているところにゆえんしています。登場するカップル達はいずれも、愛する人々や同僚に認められ、受け入れてもらうために奮闘します。そのうち何組かは安定した恋愛関係を築き、そして恋人の死に打ちひしがれるのです。

 原作者のクレーマー自身に見立てたネッド・ウィークスを演じたラウル・エスパルザは素晴らしい出来でした。友人達や役人と話し合うなかで、彼らが広まる伝染病の真実に向き合う事に抵抗する度に、彼は声を荒げ緊張感を高めて、力強く芝居を引っ張りました。役者達はいずれも堂々と各々の役を演じていました。ジョアンナ・グリーソンは思いやりのある、いらいらした医者を見事に演じ、ビリー・ワーロックは、ネッドがやがて愛するが結局死んでしまう、優しくも痛ましい、もの静かでありながら力強いハンサムな男の役を演じました。

 劇場を後にしながら我々は、この芝居が初演されてから約20年もたつ今、世界中で2億人がエイズウイルスに感染するという現実に向き合わざるを得ませんでした。この悲劇に終止符を打つ日は来るのでしょうか。

Photo: Carol Rosegg


芸術性 ★★★★★
娯楽性 ★★★★★
斬新さ ★★★★★
癒し度 ★★★★★


(Updated on 10/26/04)

シアター レビュー

“屋根の上のバイオリンひき”


Performed at Claska
Reviewed on 3/23/04
by Tamsin Nutter
Translated by Jasmine Suzuki

悲嘆はどこに?

 不朽の名作というものがあります。“ミカド”がそのひとつであり、そして帝政ロシア時代のユダヤ人の村を描いた1964年の愛すべきミュージカル“屋根の上のバイオリン弾き”もまたそのひとつです。ジェリー・ボックスの曲は、ユダヤ伝統音楽のもの悲しいながらも踊らずにはいられない味わいを持ち、ジェローム・ロビンスの振り付けは情熱的です。ジョセフ・スタインの脚本とシェルドン・ハーニックの歌詞を使ったシャローム・アレイへムのオリジナル版は、叙事詩的な感覚と愛情に満ちた人間性を残しています。

 しかし不朽の名作も、その名声を引っ張れるのはここまで。デイビット・レヴューズ演出、アルフレッド・モリーナ主演、現在ブロードウェイで上映中の“屋根の上・・・”は大規模かつ贅沢で、巧みな趣向で製作されています。おそらくそれがこの作品の欠点なのでしょう。なぜなら、1971年に公開された映画を非常に魅力的でもの悲しいものにした、ごつごつした感情的な心が、このショーではほぼ失われているからです。

 酪農家テヴィエはこのミュージカルで大変重要な役の一つです。典型的で人間らしい狡猾さ、男としての権力を誇示しようとするあがき、神への憧れ、強情な娘たちに対しての照れながらも優しい心、そして彼はミュージカルの中心となる闘争の象徴でもあるのです。(ロシア革命の発端ともなった)1905年当時は、隔離されたアナテウカ村も変革の時だったのです。テヴィエ役のモリ―ナは力強い演技ですがインスピレーションを与えず、物語を衝撃的にするには弱々しく感じられました。他の役者たちはそれほどではありませんが、そこそこの演技を見せています。しかし、コーラスのメンバーの台詞のアクセントがまちまちで耳障りでした。ランディ・グラフは口やかましくユーモラスなテヴィエの妻、ゴールデを演じ、サリー・マーフィーとジョン・カリアーニは極度の心配性のツェイテルとその恋人を演じました。ローラ・ミシェル・ケリーはホーデル役に扮してすばらしい歌を聴かせ、トリシャ・パオルチオは堅苦しいチャヴァを微妙に描写し、ロバート・ぺトコフはカリスマ性を持つ革命家、パーチックを演じました。

 仲介役のイェンテを演じるナンシー・オーペルはうるさくて耳障りなほどでしたが、これは周りで演技する役者の位置が低すぎたせいでしょう。贅沢だからと言って繊細さが無くなるのではなく、この“屋根の上のバイオリン弾き”の様な、庶民の生活(その豊かさと狭量さの両方)を称え、酷評し、嘆き、そして必然的に古い生き方が新しいものへと変わっていくという作品には、その両方が必要なのです。

 レヴューズの演出は、魅力的な“安息日の祈り”からびっくりするほど退屈な“テヴィエの夢”まで様々です。トム・パイによる葉のないカバの木の葉が広がって舞台に溢れ、演奏者たちはその木々の間に座り、移動式の空からつるされたオイルランプが楽譜を照らしました。しかし、バイオリン弾きを乗せて定期的に降りてくる木製の屋根など、他の舞台セットはそれほど素晴らしいものではありませんでした。そして、この製作で他にも見れるように、バイオリン弾きの見栄(典型的なユダヤ人の悲嘆や快活さの表現)も詩的ではなく、無理に作った様な不自然さが感じられました。

Photo: Carol Rosegg


芸術性 ★★★
娯楽性 ★★★
斬新さ ★★★
癒し度 ★★★


(Updated on 9/21/04)

オペラ レビュー


能オペラ“マクベス”

Performed at Williamsburg Art & Historical Center
Reviewed on 4/9/04
by Tamsin Nutter
Translated by Rieko Yamanaka

能楽版マクベス、恐ろしさを剥き出しに

 日本の伝統芸能である「能」を二十一世紀に伝えようと働きかけている一人に、作曲家・浅井暁子がいます。メ能オペラ「マクベス」モと題した彼女の魅惑的な作品は、シェイクスピアの原作を構成するバロック調の言葉や筋のひねりを取り去り、その本質的な恐ろしさを剥き出しにしています。巨大な長方形の部屋で簡素に上演されたこのオペラは、西洋の近代オペラと日本の能楽を合体させたもので、日本語で歌われました(英語のリブレットを提供)。アキラ・ニシオによるドラマチックな照明が、白い壁に大きな影を落としています。四人のミュージシャン(ハルカ・フジイ、ユリ・ヤマシタ、クリス・トンプソン、マキア・マツムラ)がチャイム、ドラ、ドラムセット、ピアノなど様々な打楽器を演奏し、チ・チャン・ホーが客席の後ろからこれを指揮しました。

 古代ギリシャ演劇と同じように、伝統的な能では地謡いと呼ばれるコーラスが物語の背景を語ったり、出来事に解説を加えたりするのに使われます。ニューヨーク大学作曲課の修士課程で学ぶ浅井は、八人編成のコーラスを物語の進行だけでなくリズムや雰囲気を作るためにも使っています。魔女たちに扮したコーラスがマクベスを取り囲み、打楽器が凄まじい音を立てる中、身の毛のよだつような声のカオスを作り出します。それは野心が彼を押しつぶす決定的瞬間です。浅井はいくつかの驚くほど効果的なアリアやレチタティーボ(夢遊病のシーンなど)を造り上げていますが、"能オペラ「マクベス」"の中で最も存在感があった音楽はコラールでした。

 この作品の最大の画期的な演出は、三人の主要人物のそれぞれに声楽家と舞手のペアを配役したことでしょう。マクベスとマクダフは男性が謡い、女性が舞います。逆にマクベス夫人は女性が謡い、男性が舞います。この奇抜な着想の効果は抜群で、大仰な音楽の底流に不気味な能楽の動きを加えるだけでなく、登場人物たちに関する様々な事柄を示唆してくれます。マクベスの声(テノール・テツヤ・アリメ)は雄々しく感情的な一方、その肉体(リョウコ・アオキ、非常に良い出来)は繊細かつ冷淡で殺気さえ孕んでいます。マクベス夫人の声(ソプラノ・キョウコ・ナガザキ)は可憐で機敏ですが、彼女の肉体(ゲンクロウ・ハナヤギ)は残酷さとずる賢さ、言ってみれば野心の為には人をも殺める彼女の「男の心」を表しています。この二組の組み合わせは特に見事なものでした。マクダフを演じた二人も卓抜でしたが、そこまでの一体感は見られませんでした。バリトン・ジョコウ・アンドウのドラマチックな歌いぶりと生き生きとした顔の表情には惹きつけられましたが、彼の化身を驚くべき凶暴さで舞ったミキフ・ハナヤギから注意を逸らすものでした。マクベスと初めて対面する場面で、雷を思わせる微かなドラムロールが聞こえると、彼女は両目を僅かに見開き、ぞっとするような表情を見せました。正に鳥肌が立った瞬間でした。


芸術性 ★★★★
娯楽性 ★★★
斬新さ ★★★★
癒し度 ★★★


(Updated on 10/20/04)

Steps

Makiko Method
ピラテスインストラクター
養成講座
in New York
212-753-7806
www.makikomethod.com

星の見方
 
素晴らしい!★★★★★
 良かった! ★★★★
 まあまあ  ★★★
 ダメ    ★★
苦しかった   ★
JOFFREY BALLET SCHOOL
TEL: (212) 254-8520
www.joffereyballetschool.com
 
 
 
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