アーツ・キュア 2003年 12月・2004年 1月のレビュー
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ダンス レビュー

Nai-Ni Chen Dance Company

ナイニ・チェン・ダンスカンパニー

Performed at Baruch Performing Arts Center,
Nagelberg Theater
Reviewed on 12/4/03
by Tamsin Nutter
Translated by Rie Ono

ぬれた袖、からまった糸

 

 バチュラム・ロス、メアリー・アンソニーのもとで勉強したナイニ・チェンは、米国にやってきてから20年たっても、アメリカの古典的なモダンダンスの伝統と、中国の文化を融合させるために熱心に取り組んでいます。また彼女はいまだに振付家のしての自身の声を模索しているようにもみえます。昨年12月、バルーチ大学のネイゲルバーグ・シアターで、公演開始15周年を記念し、チェンは4作品を披露しました。中国の伝統とアメリカの古典の融合には、面白いものも多少見受けられましたが、この晩の公演にはいつくか欠点がありました。チェンの作品は、こうした劇場で上演するにはいささか近視眼的すぎるものであり、しかも創造的でも繊細でもなかった照明は、彼女の作品にすこしも力を貸すものではありませんでした。

Photo: Carol Rosegg

 二人の男性と女性が白い衣装を着て踊る“インセンス(香)”は瞑想的な儀式のような作品です。ジョーン・ラ・バーバラ作曲、演奏による音楽(録音と生演奏の両方を起用)には彼女のおぼろげな歌声に加え、鳥の声、雨、太鼓、ささやきなどが含まれています。ダンサーたちははじめゆっくりと動き、徐々に大きな動きとなっていき、最後は祈祷者のようなシンプルさに落ち着きます。4人のダンサーは全員力強く、かつ美しく、バレエのテクニックとグラハムの激しさを融合させていますが、音楽に見合う恍惚さを見せるには至りませんでした。その原因は退屈といってもいい振り付けにあります。“インセンス”は私たちを儀式として感動させるには、あまりにも「公演用のダンス」と言えるでしょう。

 チェン自身は「水袖」を身にまとい、伝統的なソロ作品“絹の河への道”を踊りました。プログラムには「ダンサーの感情につながりのある水の動きを表現するために」と書かれていました。チェンの体に巻き付くシンプルな白いドレスから流れ出る大変長い袖は、はじめは彼女を地面に縛り付けているかのように見えます。が、彼女は自身を解き放つことに成功し、まわりで渦巻き輝いている巨大な袖は、彼女の小さな体をしっかり支えているようでした。残念なことにバルーチの巨大なステージ空間はチェンの繊細さには大きすぎたようで、袖によって創り出されるドラマは、特にパターンだらけの想像力に欠けた照明のもとでは効果を失ってしまいました。

 最後の、そして最も意欲的な作品“切れない糸”は人間のつながりの象徴としてロープと結び目をつかったものです。作品の始まりはわくわくするようなものでした。ジェイソン・カオ・ワンの音楽が高まると、薄暗い照明の中、ダンサー達は天井から吊られ舞台いっぱいに広がる絡まったロープに群れているのがみえます。しかし、そのインパクトもすぐに効果を失ってしまいます。次の瞬間、照明が明るくなり、ダンサーたちはロープから素早くおりてしまいます。チェンはミュン・ヒー・チョー製作の素晴らしく良く出来たロープの固まりをセットとして主に使い、動きと密接したものがあまり見られなかったのは残念です。ある瞬間ではエディー・ストックトンがロープに登り、他のダンサーが群がると、みんなでロープのはしを引っぱって、突然放します。気ままにゆれる一本のロープの上の彼をスポットライトが劇的に照らし、そして突然暗転します。作品はそこで終わるべきでした。それはとても美しい瞬間でした。が、その後もかなりの間作品は続いたのです。チェンは素晴らしいアイディアをもっているのですが、“切れない糸”はすこし編集されるべきでしょう。

 チェンは美しいイメージをいつも創り出しながら、それらを無駄にしてしまっているようです。ダンスにもっと編集作業が必要とされるにせよ、製作スタッフをもっと慎重に選ぶべきにせよ、チェンが注目すべき中国系アメリカ人の視点を今日のモダンダンス界に提供していることは事実です。一番楽しかった作品“雨のしずく”では、美しいサテンのチャイナドレスをきて戯れている少女たちが、女性へと成長していく様子を描きました。チェンはこの作品で、もっと見てみたいと思わせる、解放感のある楽しい動きを披露しました。チェンは、そうした要素や伝統的な中国の動きの使い方を、彼女の個性を隠す、一般的なバレエやモダンダンスの動きからきちんと識別するべきでしょう。

芸術性 ★★★
娯楽性 ★★
斬新さ ★★
癒し度 ★★

(Updated on 7/15/04)

ダンス レビュー
Fugate/Bahiri Ballet NY
ヒューゲート/バヒリ・バレエNY
Performed at Symphony Space
Reviewed on 1/9/04 by R. Pikser
Translated by Yukie Shimada

もっと良くなりそう…
 ヒューゲート/バヒリ・バレエNYのダンサー達はかなり力があり、非常に優れたダンサーもいますが、この新しいダンスカンパニーの見所は、やはり振付家のセレクションにあるでしょう。今年1月のシンフォニースペースでの公演では、プログラムの前半に、これぞ古典というバランシン、チューダー、マーティンス作品を持ってきました。ダンサー達は、少数のダンサーによる群舞とソロからなるバランシン作品“ワルツ・ファンタジー”と、チューダー作品“コンティニュオ”を堂々と見せました。中でも群舞のダンサー達は、個々の解釈による動きをみせ、機械的で型にはまった振付けという印象を与えることもなく、ソロのダンサーよりむしろ面白く思われました。一方ソロのダンサーは、訴えかけるこれといった要素にかけ、観客を魅了できていません。マーティンスの作品“リフレクションズ”では、クリスティーナ・ファガンデスとデイヴィス・ロバートソンによる落ち着いた動きと、振付けそのものの官能的な要素があいまって、二人は別々の身体で一つのオルガスムスを作り出しているようでした。作品も演技も、もう少し遊び心があれば、更によくなったでしょう。

 後半のプログラムは、よりモダンダンスの概念をもつ二作品からなっていました。タディアス・デイヴィスのデュエット“ヴィヴァルディアン・チャット”は、はっきりと三つに分かれた構成で、バランシンやチューダー作品よりも面白みがありました。音楽は、バッハとビバルディから、ヨーヨー・マの素晴らしくも変わったチェロ演奏と、ボビー・マックフェリンのボーカルからなっています。残念ながら、デイヴィスはダンサー達(ターニャ・ワイドマン・デーヴィスとプリンス・クレデル)の技術面にこだわったために、特に第一部と第三部では、彼らのテクニックを見せること自体が目的となってしまったようです。華麗な技術の応酬のために、我々がプログラムノートから期待した、ダンサー等の感情の表現が見て取れませんでした。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

Tanya Wideman Davis and Erik Wagner
Photo: Eduardo Patino

 最後の作品、アン・マリー・デアンジェロによる“一瞥”は、最も意欲的なものでした。同性愛と異性愛のエロチシズムを持つこの作品は、登場人物の詩人と彼の愛人が、二人が惹かれあうのは、自分にないものを相手が持っているからだと気づき、戸惑う様を描いています。このバレエは、詩人テオフィル・ゴーチェの心の動きに焦点をあてており、彼の小説がこの作品の台本になっています。デアンジェロの作品は例によって、振りが難しく技巧的ですが、そのイメージが結局、我々の心に焼き付けられることはありませんでした。それは、ダンサー達が作品に向こう見ずに飛び込むほどの情熱を持っていなかったか、振り付けそのものに情熱が足りなかったかのどちらかによるものでしょう。

 この若いダンスカンパニーは、技術的にも知的にも多くの強みを持っています。彼らの作品の選択は歴史的、主題的に見ても、また振付けの観点からも、面白いといえます。彼らの次の課題は、技巧から一歩進んで情熱的なダンサーになることです。自分達の内面に向き合って次のレベルを見つける事が、素晴しいダンサーになるために必要なことといえるでしょう。

芸術性 ★★★
娯楽性 ★★★
斬新さ ★★
癒し度 ★★

(Updated on 4/13/04)

WIND FROM THE EAST
ダンス レビュー

Tokason
Dance Resources on Earth

桃花村 舞踊公演「ひとさらい」

Performed at
New National Theatre, Tokyo
Reviewed on 12/27/03
by Mieko Marumo
Photo: Atsushi Koyama

 
 山梨県敷島町と白州町に活動拠点をもつ、舞踊資源研究所主催「桃花村」が、新作「ひとさらい」をもって新国立劇場で初めての公演をしました。本作品は数年前、中野のplanB(ライブ・スペース)で2度の習作公演、そして今夏、白州で野外公演を行ったもので、今回、新国立劇場の空間を想定しての新たな創作発表となります。
 

 歌舞伎と舞踏の融合―これが田中泯が狙った「ひとさらい」の演出コンセプトと言えるでしょう。まず”誘拐”というテーマ自体が日本の古典劇(能・歌舞伎)の伝統的な題材です。なかでも本作では歌舞伎の手法と共通する数多くの演出を点在させ、それを日本の終戦直後の世相を背景に、そこに暮らし、生きる人々の日常を”現代”という視座から描いた点に、舞踏というジャンルよりも歌舞伎の生世話狂言に通じる社会性に近いものを感じました。
 

 舞台下手に廃屋と集落をつなぐ曲がりくねった道が2つの開帳場を使って構成され、この2つの開帳場の組み合わせによって景が変わっていきます。幕開きでは、オリジナルな墨黒の幕の前で異様な扮装をした1人の男(田中)が登場し、上空のヘリコプター(音のみで表現)を追って客席へ降り、通路を通って、再び舞台へ上がります。ヘリからは客席へビラが蒔かれます。その男の右肩をよく見ると、赤い別布が掛かっているので、狂乱の態の暗示になっています。そのうちに遠くに祭囃子が聞こえてきて―そこで幕が振り落とされ、前述の舞台装置が眼前に出現します。音楽は誰もが聞き覚えのあるポップスや歌謡曲の数々(「ケサラ」「この胸のときめきを」「スーダラ節」等)を、歌詞に舞踊の動きを付けるのではなく、余所事浄瑠璃風にその音楽がどこからか流れているというように使っていきます。それに肉声や轟のようなゴーンという音を通奏低音として絡ませています。
 

 場面は農村の日常。野良仕事を終えた傍らで遊ぶ子どものいる風景、家の中に子どもが押し売りと出会う風景etc.。そういう日常の中にも魔の手がひそんでいることを警告しています。ダンサーたちは足萎えのような舞踏独特の身体技法で、踊るというよりも演じているようにみえました。子ども役のダンサーはオシメをしているかのようなガニ股で、蛙飛びやでんぐり返し、ケンケンなどの所作をみせます。が、どのダンサーも身体は訓練されているので、体から発する微かな波長が重奏して、粒子の粗い映像的なイメージをつくるのに効果的であったと思います。終盤は、黒の下着風の女2人を閉じ込めた家屋に、誘拐犯が忍び寄ってくる陰湿なシーンを描いていますが、ここの手法がだんまり風であると言えなくもないでしょう。最後は7名のダンサー全員が中に水を入れたビニール袋を米俵のように担いだり、抱え持って、舞台を下手から上手へ何度も巡回し、そのあと黒子も一列に並んで終わりとなります。わずかな衝撃でも破水する袋が象徴するものは―羊水、命、心、平和― 一体、何なのでしょうか。しかし、それを持って巡ることで輪廻を表そうとしているのは明確と言えます。

 総体的に面白く、劇以上に劇的な演出であったと言えなくもないのですが、このように人々の遠い記憶を蘇らせ、現代の社会問題とわかりやすく重ねて描こうとするだけで、私たちは満足してしまってよいのでしょうか。私は田中泯という人は、例えば犯人の立場から彼の心理を通してその事件を描くといった、逆転の発想で“人さらい”を描ける才能の持ち主であるのではないかと思うからです。少なくとも、そういう可能性を秘めている振付家であろうし、そういう舞台も今後に期待したいと希っています。

芸術性 ★★★★
娯楽性 ★★★★
斬新さ ★★★★
癒し度 ★★★★

(Updated on 4/26/04)

WIND FROM THE EAST

ダンス レビュー

Tetsuhiko Maeda Memorial
前田哲彦メモリアル

Performed at Tokyo Geijyutsu Theater
Reviewed on 1/06/04 by Yukihiko Yoshida
Translated by Atsuko Ono

今なお輝き失わぬ『動視覚アーツ』−日本を代表する舞台美術家、前田哲彦

Photo: Yasuo Yamahiro

 世界で高く評価を受けた日本を代表する舞台芸術家として、前田哲彦という作家がいました。(1998年1月20日没)新年の東京で、前田の作品を記念する企画が行われました。前田の製作の原点には常にアイデアがありました。初期の前田作品にはレオタードにボンドでオブジェをつけたような作品が見受けられます。舞台美術と衣装、というふうに分けたものではなく、自ら『動視覚アーツ』と銘打った、「作品と衣装、舞台美術や肉体とその動きが一体化したもの」という考え方です。  

 ケイ・タケイの“最後の米畑”(1989) からの抜粋では黄と緑による縦縞の中、踊り手達が座ったまま身を屈めたり伸ばしたりします。タケイやラズ・ブレザーといった存在感ある踊り手が、それぞれの空気の流れを形成します。舞台美術と踊り手の動きが、一貫したアートの中で形成されています。そして単なる美術のみならず、縞模様が次第に短くなることから畑の畝が短くなることを描き、当時の農林省による減反政策に対し、作家による舞台美術を通じた社会的発言が作品に込められています。  

 折田克子と前田のコンビは次々と名作を生み出しました。“夏畑−エンドレスサマー”(1986) からの抜粋は完成度が高い情景です。丸いスチール製のオブジェが舞台にある中、夏の民族衣装をまとった踊り手が舞います。折田の自由な発想が前田の世界と見事に融和しました。舞台が白く輝き、立体的な空間が浮き上がる美術も巧みです。  

 “パ・デゥ・カトル”(1977) は佐多達枝の描写力が前田の世界に見事に収まりました。全てに恵まれた夫妻と執事、女中が人の欲望の世界へと堕ちていきます。バレエ・テクニックを用いた感情表現は、日常から浮き出ることのない自然なものです。前田の美術はシンプルなものですが、肉体を引き立てました。  

 タケイよる“エボケーション”(1985) は四季の営みを描いた作品であり、時間の経過、視点の移行を視覚化した『動視覚アーツ』として大きな特徴を持つものです。舞台いっぱいに敷かれたシートの中、タケイの動きが踊り手達に伝わりはじめ、床に張られた線が雪解けを表わします。踊り手達が春を描き、やがて舞台は蛍が現れる夏に変わります。暗転した舞台から夏の満天の空が現れます。宙からロープが降ると舞台は一転、秋の林となり踊り手達が木々の間に現れます。そして再び情景は冬となり、天空から滝のように白い砂が幾筋も落ちるクライマックスとなります。最後の情景は千住博の絵画「ウォーターフォール」や日本画の中の滝の様に幻想的なものです。日本の現代舞踊で現在様式となった多くの方法がこの作品で多く見て取れます。  現在日本で良く行われる白い砂が宙から落ちる舞台の情景を考案したのも前田でした。一般的な舞台美術と一線を画すのは1つ1つの装置の美術性の高さです。さらにそれぞれのエレメントと肉体が融和し、技術や情報が溢れた現在でも描くことが難しい世界が生まれています。  

 前田のアイデアは現在でも日本の舞台美術や照明等に大きな影響を与えてい ます。日本のみならず、広く世界の国々でも、その試みや考え方まで掘り下げた 形で理解をされ継承されても良いように思います。

芸術性 ★★★★★
娯楽性 ★★★★
斬新さ ★★★★
癒し度 ★★★★

(Updated on 4/13/04)

シアター レビュー


(l. to r.) Yuki, Mansai and Mansaku Nomura
in Utsubozaru Photo: Takako Nakasu

Mansaku-no-Kai Kyogen Company
万作の会
Performed at Japan Society
Reviewed on 12/10/03 & 12/11/03 by Eri Misaki
進化する狂言

 狂言は日本最古の伝統芸能、能の一部で、深刻な能の演目の間に形で演じられる、コメディタッチの芸能です。和泉流野村家の野村万作率いる「万作の会」のNY公演はこれが二回目で、今回は万作、萬斎、そして4歳の野村裕基(ゆうき)の親子三代がお目見えしました。演じられたは3演目は、いずれもモダンに演出されたものでした。

“川上”は盲の夫とその妻の物語。夫は盲目の不自由さに耐えかね、霊験あらたかな地蔵に祈願します。奇跡的に目が見えるようになったものの、初めて見る妻がとんでもない醜女と知ってびっくり。夫はとっさに「これは悪縁だとお告げがあった」と離縁しようとしますが、長年献身的に支えてきた妻は怒り悲しみ、こんな事なら夫の目を元に戻して下さいと祈ります。また盲になった夫は妻に手を取られ、仲良く退場します。万作が盲目の夫を、妻を石田幸雄が演じました。万作の演技は実にリアルで、盲人らしい心もとない歩みや、転んだ時の痛がり様、再び盲に戻った時の悲し気な泣き方が真に迫っていました。それにしても、今も昔も男とは身勝手な生き物です。

“ぶす”とは「毒」という意味です。ある日、主が2人の従者に、「ぶす」は猛毒なので手を付けぬようにと言い残して出かけます。しかし、そう言われると興味が湧くのが人間。おっかなびっくり「ぶす」の蓋を開けた2人は、それが水飴であることを知り、2人で食べてしまいます。言い訳に困った2人は家の家宝を壊し、帰って来た主人に、誤って家宝を壊したので、死んでお詫びをしたかったと言います。太郎冠者を石田幸雄、次郎冠者を深田博治、主を月崎晴夫が演じました。石田と深田の巧みなマイムに、観客席の子供達までが大喜びでした。

 “うつぼ猿”は、狩りが大好きな大名のお話。ある日、狩りの途中で出会った猿曳きが連れている猿の毛並みを気に入った大名は、毛皮をよこせと強引に要求します。猿曳きは可愛い猿を殺そうとしますが果たせず、自分もろとも殺せと言います。それを聞いた大名は泣き出し、要求を下げます。喜んだ猿曳きはお礼に猿に踊らせると、大名も一緒に踊ります。二日間の間に万作と萬斎が大名と猿曳きを交代で演じ、猿は裕基が演じました。自然で威厳のある万作の演技に対し、萬斎はまさに大輪の花のように華やかで派手な舞台です。特に萬斎の猿曳きの謡は美声が朗々として楽しめました。しかし、一番「役者」を感じさせたのは、小さな裕基でした。舞台の上から観客の反応を見ていて、観客が笑うと同じ動きをくり返したり、振りをまちがえても平気で演技を続けて観客に気付かせないなど、なかなかの大物です。むしろ、一緒に演じているお父さんとおじいちゃんの方が、はらはらしたり、ぎくっとするなど、普段は絶対見られない表情が見られ、それはそれで心暖まるものでした。

 アメリカ人観客のために台詞は舞台脇のスクリーンに英語の字幕が映し出されました。日本語の台詞は現代化され、動作表現も現代風にうんとリアルに演じられます。特に面白い演出は、ミュージカルのように台詞が途中から謡いになったり、夫婦のデュエットがあることです。それが狂言として全く違和感を感じさせません。こうした新しい演出によって「万作の会」が現代の国際的な観客を獲得する事は確実でしょう。1997年に行われた公演では、無理矢理シェイクスピア劇を狂言に当てはめる等、違和感を感じるものでしたが、今回は文句無しに良い舞台に仕上がって居ました。そして、初日のカーテンコールでお辞儀を忘れてお父さんに慌てて頭を押さえられて観客を湧かせた裕基に、一層将来の楽しみを覚えました。

 
芸術性 ★★★★★
娯楽性 ★★★★★
斬新さ ★★★★
癒し度 
★★★★★
映画 レビュー Presented at The Leonard Nimoy Thalia
To Be or Not To Be
生きるべきか死ぬべきか
Reviewed on 1/30/04 by R. Pikser
Translated by Yuri Yoshino
時を越える珠玉のスリラー
An Oldie but Goodle

 1939年、ヨーロッパではナチスの嵐が吹き荒れていました。西に目を向けると、1940年に英国でチャーリー・チャップリンの“独裁者”が公開され、ハリウッドでは、エルンスト・ルビッチ制作・監督の“生きるべきか死ぬべきか”が、ジャック・ベニーとキャロル・ロンバート主演で公開されました。ドイツ出身のルビッチは当時、米国に移住して17年、米国市民となってから6年が過ぎていました。チャップリンの映画“独裁者”は、果敢にもかなり政治色の濃い作品で、ヒットラーとムッソリーニを嘲笑し、彼等がヨーロッパのいたる所で引き起こしていた恐怖を緩和しようとするものでした。ルビッチは、コメディタッチでありながら人間の感情の真理を突いたスパイ・スリラー映画の背景に、ポーランド侵攻およびナチスの恐怖を使っています。

 ジャック・ベニーとキャロル・ロンバートは、ワルシャワの人気役者夫婦、ジョセフ・トゥーロと妻マリアを演じています。特にマリアは有名スターで、とかく色めいた噂の多い女優。彼等が“ハムレット”を上演している時に、愛嬌たっぷりのロバート・スタック演じる若い飛行士がマリアに愛を告白すると、マリアはちょっとした浮気を楽しむため、ジョセフの「生か死か、それが問題だ」のセリフが始ったら、彼女の楽屋に来るように飛行士に言います。当然、飛行士は芝居の最中に、同じ列に座っている観客の迷惑も顧みず、皆を立たせて楽屋に向かいます。自分の見せ場で観客が2晩連続で立ち去るという屈辱を受けたジョセフは、役者としての自尊心もボロボロ。その直後、ナチスのワルシャワ侵攻のニュースが伝えられ、若い飛行士は英国空軍のポーランド人部隊に入隊するために英国へ去ります。そしてある日、英国空軍でシニスキー教授という人物が若い飛行士たちにワルシャワへ帰る事を漏らすと、若者たちは喜んで家族や大切な人へのメッセージと連絡先のメモを教授に託します。しかし、有名スターであるマリアの名を教授が知らない事に疑惑を持ったスタック演じる飛行士は、英国情報局に通報します。シニスキーがナチスのスパイであることが確認されると、飛行士は地下組織と連絡を取り、彼らをナチスから守るために、ポーランドに派遣されます。彼の乗った飛行機は地上から銃撃されますが、飛行士はトゥーロ家のアパートに無事たどり着き、これをきっかけにトゥーロ夫婦とその劇団が地下解放組織に関わっていきます。その後の彼らの活躍は目覚ましいものでした。まず、マリアがシニスキーに色仕掛けで近付き、その後ジョセフが、「強制収容所エルハード」という異名を持つSS司令官、エルハードになりすまします。シニスキーは役者達に殺害され、ジョセフは本物のエルハードにシニスキーとして会います。そして危機に瀕したジョセフをナチス警備隊に扮した役者仲間が救出する、などなど。そんな最中、若い飛行士に対する嫉妬、さらに役者としての自信喪失に、ジョセフは幾度となく身を焦がす思いをするのでした。

 映画は、ユダヤ人問題も間接的に描いています。ジャック・ベニーはもちろんユダヤ人でしたが、作品中はポーランドの劇団と設定されています。しかし、ギンズバーグと名付けられた下っ端役者は、明らかにユダヤ人として表現されています。シャイロック役を演じることを熱望するギンズバーグが、友達を相手に「針を刺しても血が出ない・・・」というセリフを言う場面は素晴らしいものがあります。全編を通して、このセリフの冒頭部分が数回繰り返されますが、それはこの映画が表現する最も明白な政治声明といえるでしょう。

 芸術的なレベルでも、この映画を楽しむことができます。ジャック・ベニーが基本的に彼自身、または数年に渡って彼が育ててきた役を、抑えた演技で魅力的に演じています。キャロル・ロンバートは、自分勝手な夫に負けず劣らず浅はかな妻を演じるといったコメディ女優の演技を超えて、彼女が危機に陥った場面では迫真の演技で観客をハラハラさせます。この映画がスリラー映画として成り立った理由はキャロル・ロンバートにあるといえるでしょう。

 技術的な視点から見ても”生きるべきか死ぬべきか”を楽しむことができます。古臭い描写はところどころあります。現在のリアルな特殊効果や現実そっくりな映画に慣れた観客の目には、何台もひっくり返ったカートや有刺鉄線でできた警察の防護柵の後ろにある絵の背景に違和感を感じるでしょう。撮影は、ミッドショットが多用され、緊張感や心理的状況を描写するクローズアップはあまり使用されていません。それでも、初期の多くの白黒映画の良く見られる、押し付けがましさのない照明技術は素晴しく、目を見張るものがあります。

 この映画は、プロダクション・デザイナーでもあったルビッチの監督下で制作されたことは明白ですが、ルビッチと優秀な俳優陣および技術クルーのコラボレーションの賜物ともいえるでしょう。彼らは単なるコメディ映画を作るつもりだったのでしょうが、彼らのコラボレーションの素晴しさが、滅多に見られない高度なクオリティを持つ映画を実現させたのです。

芸術性 ★★★★
娯楽性 ★★★★
斬新さ ★★★★
癒し度 ★★★

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